藤波言忠
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- ふじなみ ことただ
- 藤波言忠
- 臨時帝室編修局副総裁宮中顧問官正二位勲一等子爵
- 京都府
- 嘉永5年9月12日 - 大正15年5月24日
経歴
嘉永5年9月12日 | 京都生まれ[1][2][3] |
明治1年 | 神祇権大副 |
明治6年 | 明治天皇御学友 |
明治12年 | 侍従 |
明治17年3月22日 | 任侍従[4] |
明治18年7月22日 | 御用有之欧洲ヘ被差遣候事[5] |
明治19年2月15日 | 奏任二等年俸千八百円下賜[6] |
明治20年 | 帰朝 |
明治22年7月23日 | 任主馬頭 叙奏任官一等賜五級俸[7] |
明治25年12月28日 | 叙二等[8] |
明治33年6月21日 | 欧米各国ヘ出張被仰付[9] |
明治37年2月16日 | 兼任宮中顧問官 叙一等[10] |
明治37年9月22日 | 臨時馬制調査委員会委員被仰付[11] |
明治38年11月6日 | 韓国ヘ被差遣 韓国出張中侍従兼務被仰付[12] |
明治41年6月23日 | 昇叙高等官一等[13] |
大正3年6月10日 | 旧堂上華族保護資金調査委員被仰付[14] |
大正5年1月8日 | 依願免本官専任宮中顧問官 貴族院議員(勅選議員)[15] |
大正5年3月18日 | 臨時帝室編修局御用掛被仰付[16] |
大正7年2月18日 | 維新史料編纂会委員被仰付[17] |
大正11年4月25日 | 臨時帝室編修局副総裁被仰付[18] |
大正15年5月24日 | 薨去[19] 特ニ親任官ノ待遇ヲ賜フ[20] |
栄典
位階勲等
文久3年12月 | 従五位下[2] |
明治17年7月8日 | 授子爵[21] |
明治20年12月26日 | 叙正四位(特旨)[22] |
明治22年11月29日 | 大日本帝国憲法発布記念章[23] |
明治22年12月27日 | 勲六等瑞宝章[24] |
明治26年6月29日 | 勲五等瑞宝章[25] |
明治27年12月26日 | 勲四等瑞宝章[26] |
明治31年12月28日 | 勲三等瑞宝章[27] |
明治32年9月14日 | 木杯一箇下賜[28] |
明治37年12月27日 | 勲二等瑞宝章[29] |
明治39年4月1日 | 賜金五百円 (明治三十七八年事件ノ功)[30] |
大正3年12月23日 | 勲一等瑞宝章[31] |
大正4年11月10日 | 大礼記念章[32] |
大正4年12月1日 | 授旭日大綬章[33] |
大正6年9月20日 | 叙従二位[34] |
大正10年1月10日 | 七十歳ノ高齢ニ付キ御紋付銀杯並ニ酒肴料下賜ヒタリ[35] |
大正10年7月1日 | 第一回国勢調査記念章[36] |
大正15年5月24日 | 薨去[19] 特ニ親任官ノ待遇ヲ賜フ[20] 叙正二位(特旨) 授旭日桐花大綬章[19] 帝都復興記念章[37] |
大正15年5月27日 | 薨去ニ付キ貴族院ヨリ弔辞[38] |
大正15年5月28日 | 葬送ニ付キ勅使トシテ 侍従山縣有朋ヲ差遣ハサレ幣帛ヲ下賜セラル[39] |
大正15年7月2日 | 家督相続人藤波茂時に襲爵被仰付[40] |
外国勲章
明治24年6月1日 | トルコ国メジディエ第三等勲章[41] |
明治26年11月24日 | オーストリア=ハンガリー帝国三等鉄冠勲章[42] |
明治32年7月4日 | イタリア王国二等王冠勲章[43] |
明治33年2月6日 | ドイツ国星章附二等王冠勲章[44] |
明治36年12月8日 | ロシア帝国聖スタニスラス第一等勲章[45] |
明治37年1月20日 | 大清帝国二等第一双龍宝星[46] |
明治37年11月29日 | 大韓帝国勲一等八卦章[47] |
明治39年2月9日 | 大韓帝国勲一等太極章[48] |
明治39年3月3日 | 大不列顚国二等聖マイケル・聖ジョージ勲章[49] |
大正6年12月11日 | スペイン王国白色四等陸軍武功勲章[50] |
出典
- ↑ 1.0 1.1 華族鑑 : 新刻(明治27年2月)
- ↑ 2.0 2.1 2.2 人事興信録 初版(明36.4刊)
- ↑ 3.0 3.1 大正名家録では”嘉永五年壬子九月十三日”
- ↑ 4.0 4.1 官報第221号 明治17年3月28日(金曜日)
- ↑ 5.0 5.1 官報第618号 明治18年7月23日(木曜日)
- ↑ 6.0 6.1 官報第811号 明治19年3月19日(金曜日)
- ↑ 7.0 7.1 官報第1821号 明治22年7月25日(木曜日)
- ↑ 8.0 8.1 官報第2853号 明治26年1月4日(水曜日)
- ↑ 9.0 9.1 官報第5100号 明治33年7月4日(水曜日)
- ↑ 10.0 10.1 官報第6185号 明治37年2月17日(水曜日)
- ↑ 11.0 11.1 官報第6372号 明治37年9月24日(土曜日)
- ↑ 12.0 12.1 官報第6708号 明治38年11月7日(火曜日)
- ↑ 13.0 13.1 官報第7497号 明治41年6月24日(水曜日)
- ↑ 14.0 14.1 官報第558号 大正3年6月11日(木曜日)
- ↑ 15.0 15.1 官報第1029号 大正5年1月10日(月曜日)
- ↑ 16.0 16.1 官報第1088号 大正5年3月20日(月曜日)
- ↑ 17.0 17.1 官報第1662号 大正7年2月19日(火曜日)
- ↑ 18.0 18.1 官報第2917号 大正11年4月26日(水曜日)
- ↑ 19.0 19.1 19.2 19.3 官報第4125号 大正15年5月26日(水曜日)
- ↑ 20.0 20.1 20.2 官報第4124号 大正15年5月25日(火曜日)
- ↑ 21.0 21.1 官報第308号 明治17年7月9日(水曜日)
- ↑ 22.0 22.1 官報第1351号 明治20年12月28日(水曜日)
- ↑ 23.0 23.1 官報第1932号 明治22年12月5日(木曜日)
- ↑ 24.0 24.1 官報第1952号 明治22年12月28日(土曜日)
- ↑ 25.0 25.1 官報第3000号 明治26年6月30日(金曜日)
- ↑ 26.0 26.1 官報第3451号 明治27年12月27日(木曜日)
- ↑ 27.0 27.1 官報第4651号 明治32年1月4日(水曜日)
- ↑ 28.0 28.1 官報第4926号 明治32年12月1日(金曜日)
- ↑ 29.0 29.1 官報第6450号 明治37年12月28日(水曜日)
- ↑ 30.0 30.1 官報第7194号 明治40年6月24日(月曜日)
- ↑ 31.0 31.1 官報第720号 大正3年12月24日(木曜日)
- ↑ 32.0 32.1 官報第1310号 大正5年12月13日(水曜日)
- ↑ 33.0 33.1 官報第1001号 大正4年12月2日(木曜日)
- ↑ 34.0 34.1 官報第1543号 大正6年9月21日(金曜日)
- ↑ 35.0 35.1 官報第2530号 大正10年1月11日(火曜日)
- ↑ 36.0 36.1 官報第2859号 大正11年2月15日(水曜日)
- ↑ 37.0 37.1 官報第1724号 昭和7年9月27日(火曜日)
- ↑ 38.0 38.1 官報第4127号 大正15年5月28日(金曜日)
- ↑ 39.0 39.1 官報第4128号 大正15年5月29日(土曜日)
- ↑ 40.0 40.1 官報第4158号 大正15年7月3日(土曜日)
- ↑ 41.0 41.1 官報第2378号 明治24年6月5日(金曜日)
- ↑ 42.0 42.1 官報第3124号 明治26年11月27日(月曜日)
- ↑ 43.0 43.1 官報第4810号 明治32年7月14日(金曜日)
- ↑ 44.0 44.1 官報第4984号 明治33年2月15日(木曜日)
- ↑ 45.0 45.1 官報第6149号 明治36年12月29日(火曜日)
- ↑ 46.0 46.1 官報第6189号 明治37年2月22日(月曜日)
- ↑ 47.0 47.1 官報第6433号 明治37年12月8日(木曜日)
- ↑ 48.0 48.1 官報第6784号 明治39年2月13日(火曜日)
- ↑ 49.0 49.1 官報第6812号 明治39年3月17日(土曜日)
- ↑ 50.0 50.1 官報第1610号 大正6年12月13日(木曜日)