大山巖
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- おおやま いわお
- 大山 巖
- 元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵
- 鹿児島県
- 天保13年10月10日 - 大正5年12月10日
経歴
天保13年10月10日 | 生 |
明治4年7月28日 | 大佐兼兵部大丞 |
明治4年8月15日 | 陸軍少将(~明治4年11月3日) |
明治4年11月3日 | 仏国留学 |
明治7年10月3日 | 帰国 |
明治7年11月8日 | 陸軍少輔兼第1局長 |
明治7年11月17日 | 陸軍少将(復任) |
明治9年10月29日 | 兼熊本鎮台司令長官 |
明治10年2月19日 | 東京鎮台司令長官 |
明治10年2月27日 | 別働第1旅団司令長官 |
明治10年3月10日 | 兼征討第2旅団司令長官 |
明治10年4月13日 | 別働第5旅団司令長官 |
明治10年6月28日 | 兼別働第3旅団司令長官 |
明治10年9月19日 | 攻城砲隊指揮官 |
明治10年10月19日 | 凱旋 |
明治11年11月20日 | 陸軍中将 |
明治11年12月5日 | 参謀本部次長 |
明治11年12月14日 | 兼陸軍士官学校長 |
明治12年12月16日 | 兼内務大輔大警視 |
明治12年12月19日 | 兼議定官 |
明治13年2月28日 | 陸軍卿 |
明治14年11月21日 | 兼参議 |
明治15年9月4日 | 兼参謀本部長 |
明治17年2月13日 | 外遊 |
明治18年1月25日 | 帰国 |
明治18年12月22日 | 陸軍大臣 |
明治19年7月10日 | 兼海軍大臣 |
明治20年7月1日 | 免兼 |
明治21年2月3日 | 兼監軍 |
明治22年10月3日 | 免兼 |
明治22年12月24日 | 兼監軍 |
明治23年6月7日 | 免兼 |
明治24年5月17日 | 陸軍大将・枢密顧問官 |
明治25年8月8日 | 陸軍大臣 |
明治26年11月11日 | 兼議定官 |
明治27年9月25日 | 第2軍司令官 |
明治28年5月26日 | 陸軍大臣 |
明治29年3月16日 | 臨時補監軍 |
明治29年7月31日 | 免本職(監軍) |
明治29年9月20日 | 依願免本官(陸軍大臣)[1] 特ニ前官ノ礼遇ヲ賜フ[2] |
明治31年1月20日 | 元帥 |
明治32年5月16日 | 参謀総長 |
明治33年12月8日 | 兼議定官 |
明治37年6月20日 | 満洲軍総司令官 |
明治38年12月21日 | 参謀総長 |
明治39年4月11日 | 免本職 |
大正3年4月23日 | 任内大臣 |
大正5年12月10日 | 薨去 叙従一位 国葬[3] |
栄典
明治17年7月7日 | 伯爵 |
明治28年8月5日 | 侯爵(陞爵) |
明治29年9月20日 | 特ニ前官ノ礼遇ヲ賜フ |
明治31年1月20日 | 元帥 |
明治35年5月10日 | 明治三十三年従軍記章[4] |
明治35年6月3日 | 大勲位菊花大綬章 |
明治39年4月1日 | 功一級金鵄勲章(年金1500円) 菊花章頸飾 明治三十七八年従軍記章[5] |
明治40年9月21日 | 公爵(陞爵) |
大正4年11月10日 | 大礼記念章[6] |
大正5年4月1日 | 金杯一組 大正三四年従軍記章[7] |
大正5年12月10日 | 薨去 叙従一位 国葬[3] |
出典
- 外山操『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』(芙蓉書房、昭和56年)
- 官報第3812号 明治29年3月17日(火曜日)