家永直太郎
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- いえなが なおたろう
- 家永直太郎
- 陸軍少将従四位勲三等功五級
- 歩兵
- 士候6 陸大17
- 佐賀県平民
- 明治6年5月6日 -
経歴
- 『日本陸軍将官辞典』には昭和14年9月17日死亡となっているが、「昭和16年10月23日官報」にて昭和15年8月15日附紀元二千六百年祝典記念章を受章しており、昭和17年『日本紳士録 46版』・昭和19年『日本紳士録 47版』に掲載されている。「昭和22年11月28日官報」には公職追放の仮指定を受けている。
- 子に東京教育大学名誉教授家永三郎
明治6年5月6日 | 生[1] |
明治28年2月1日 | 陸軍士官学校卒業(士候6) |
明治28年5月22日 | 任陸軍歩兵少尉 |
明治33年12月15日 | 陸軍大学校入学 |
明治36年11月28日 | 陸軍大学校卒業(第17期) |
明治38年7月18日 | 任陸軍歩兵少佐[2] |
明治44年12月27日 | 任陸軍歩兵中佐[2] |
歩兵第32聯隊附[3] | |
明治45年4月1日 | 補歩兵第33聯隊附[3][4] |
大正2年8月22日 | 補八代聯隊区司令官[4] |
大正4年8月10日 | 陸軍歩兵大佐・歩兵第37聯隊長 |
大正8年7月25日 | 任陸軍少将[1]・待命 |
大正8年11月1日 | 予備役[1] |
昭和7年4月1日 | 後備役[1] |
昭和11年4月1日 | 退役 |
栄典
明治42年4月6日 | 大韓帝国勲三等太極章佩用允許[5] |
明治42年4月18日 | 皇太子渡韓記念章[6] |
明治45年時点 | 正六位[7] |
明治45年時点 | 勲五等瑞宝章[7] |
明治45年時点 | 勲四等旭日小綬章[7] |
明治45年時点 | 功五級金鵄勲章[7][8] |
明治45年時点 | 大韓帝国勲三等八卦章[7] |
大正3年時点 | 勲三等瑞宝章[2] |
大正8年7月25日 | 叙正五位 |
大正9年11月1日 | 大正三年乃至九年戦役従軍記章[9] |
大正15年時点 | 従四位[10] |
昭和15年8月15日 | 紀元二千六百年祝典記念章[11] |
出典
- 外山操『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』(芙蓉書房、昭和56年)
- 官報第2805号 昭和11年5月12日(火曜日)
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 陸軍後備役将校同相当官服役停年名簿. 昭和9年4月1日調
- ↑ 2.0 2.1 2.2 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿. 大正3年7月1日調
- ↑ 3.0 3.1 官報第8633号 明治45年4月2日(火曜日)
- ↑ 4.0 4.1 官報第321号 大正2年8月23日(土曜日)
- ↑ 官報第7732号 明治42年4月8日(木曜日)
- ↑ 官報第7771号 明治42年5月24日(月曜日)
- ↑ 7.0 7.1 7.2 7.3 7.4 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿. 明治45年7月1日調
- ↑ 明治45年停年名簿では「功六」と見えるが、明治44年12月28日官報では「功五級」となっている。
- ↑ 官報第3008号 大正11年8月10日(木曜日)
- ↑ 陸軍予備役将校同相当官服役停年名簿. 大正15年4月1日調
- ↑ 官報第4438号 昭和16年10月23日(木曜日)