川口武定
ナビゲーションに移動
検索に移動
- かわぐち たけさだ
- 川口武定
- 海軍主計総監正三位勲一等男爵
- 主計科
- 和歌山県
- 弘化3年1月26日 - 大正7年1月19日
経歴
弘化3年1月26日 | 生 |
明治7年2月27日 | 任陸軍会計二等司契 |
明治12年4月16日 | 任陸軍会計二等副監督(転科) |
明治12年10月14日 | 東京鎮台会計部長 |
明治12年10月24日 | 任陸軍会計一等副監督[1] |
明治17年10月2日 | 補会計局検査部員 陸軍大学校御用掛兼勤被仰付候事[2] |
明治19年3月1日 | 補会計局第2課長[3] |
明治19年8月17日 | 軍吏学舎長兼会計局第2課長[4] |
明治20年10月24日 | 兼補陸軍大学校教官 (兼会計局第2課長如故)[5] |
明治20年11月16日 | 任陸軍一等監督[6][7] |
明治22年3月4日 | 補陸軍大学校教官 会計局出仕兼勤被仰付 軍吏学舎出仕兼勤被仰付[8] |
明治23年3月28日 | 会計局御用掛兼勤被仰付[9] |
明治23年11月4日 | 補陸軍経理学校長兼陸軍大学校教官[10] |
明治24年5月30日 | 休職被仰付 会計局御用掛ヲ免ス[11] |
明治26年5月20日 | 任海軍主計総監 補海軍省経理局長[12] |
明治30年6月5日 | 予備被仰付[13] |
明治30年10月26日 | 台湾銀行創立委員被仰付[14] |
明治31年3月11日 | 任宮内次官[15] |
明治31年3月15日 | 依願台湾銀行創立委員被免[16] |
明治31年7月20日 | 兼任小松宮別当[17] |
明治32年12月28日 | 免兼官[18] |
明治34年11月30日 | 依願免本官[19] |
明治37年7月25日 | 貴族院議員 |
明治39年1月26日 | 後備役被仰付[20] |
明治44年1月26日 | 退役[21] |
大正7年1月19日 | 薨去[22] |
栄典
明治22年11月29日 | 大日本帝国憲法発布記念章[23] |
明治23年1月17日 | 叙従五位[24] |
明治24年10月27日 | 木杯一箇下賜[25] |
明治26年6月20日 | 叙正五位[26] |
明治28年8月20日 | 依軍功特授男爵 特旨ヲ以テ華族ニ被列 勲二等旭日重光章 年金六百円 (明治二十七八年戦役ノ功)[27] |
明治28年11月18日 | 明治二十七八年従軍記章[28] |
明治31年3月21日 | 叙従四位[29] |
明治32年6月27日 | イタリア王国一等王冠勲章[30] |
明治33年2月6日 | ドイツ国星附二等赤鷲勲章[31] |
明治33年4月10日 | 大清帝国二等第一双龍宝星[32] |
明治34年11月30日 | 叙正四位(特旨)[19] |
明治38年10月20日 | 大韓帝国勲一等太極章[33] |
明治39年4月1日 | 勲一等瑞宝章 (明治三十七八年事件ノ功)[34] |
明治43年12月10日 | 叙従三位[35] |
大正4年4月20日 | 七十歳ノ高齢ニ付キ御紋付銀杯並ニ酒肴料ヲ下賜[36] |
大正4年11月10日 | 大礼記念章[37] |
大正7年1月13日 | 叙正三位(特旨)[38] |
大正7年1月19日 | 薨去[22] |
大正7年1月22日 | 葬送ニ付勅使トシテ和歌山県知事ヲ差遣ハサレ幣帛ヲ下賜セラル[39] |
大正7年3月11日 | 家督相続人川口武和に襲爵被仰付[40] |
出典
- ↑ 1.0 1.1 「職員録・明治十七年七月・陸軍将校並同等官実役停年名簿(国立公文書館)」Ref.A09054353200
- ↑ 2.0 2.1 官報第384号 明治17年10月7日(火曜日)
- ↑ 3.0 3.1 官報第796号 明治19年3月2日(火曜日)
- ↑ 4.0 4.1 官報第943号 明治19年8月21日(土曜日)
- ↑ 5.0 5.1 官報第1299号 明治20年10月26日(水曜日)
- ↑ 6.0 6.1 官報第1320号 明治20年11月21日(月曜日)
- ↑ 7.0 7.1 「職員録・明治二十二年七月・陸軍現役将校同相当官実役停年名簿」Ref.A09054408000
- ↑ 8.0 8.1 官報第1703号 明治22年3月7日(木曜日)
- ↑ 9.0 9.1 官報第2021号 明治23年3月29日(土曜日)
- ↑ 10.0 10.1 官報第2206号 明治23年11月5日(水曜日)
- ↑ 11.0 11.1 官報第2374号 明治24年6月1日(月曜日)
- ↑ 12.0 12.1 官報第2966号 明治26年5月22日(月曜日)
- ↑ 13.0 13.1 官報第4177号 明治30年6月7日(月曜日)
- ↑ 14.0 14.1 官報第4307号 明治30年11月8日(月曜日)
- ↑ 15.0 15.1 官報第4405号 明治31年3月12日(土曜日)
- ↑ 16.0 16.1 官報第4408号 明治31年3月16日(水曜日)
- ↑ 17.0 17.1 官報第4517号 明治31年7月21日(木曜日)
- ↑ 18.0 18.1 官報第4950号 明治33年1月4日(木曜日)
- ↑ 19.0 19.1 19.2 官報第5525号 明治34年12月2日(月曜日)
- ↑ 20.0 20.1 官報第6771号 明治39年1月27日(土曜日)
- ↑ 21.0 21.1 官報第8278号 明治44年1月27日(金曜日)
- ↑ 22.0 22.1 22.2 官報第1647号 大正7年1月31日(木曜日)
- ↑ 23.0 23.1 官報第1933号 明治22年12月6日(金曜日)
- ↑ 24.0 24.1 官報第1970号 明治23年1月25日(土曜日)
- ↑ 25.0 25.1 官報第2613号 明治25年3月19日(土曜日)
- ↑ 26.0 26.1 官報第2992号 明治26年6月21日(水曜日)
- ↑ 27.0 27.1 官報第3644号 明治28年8月21日(水曜日)
- ↑ 28.0 28.1 官報第3862号 明治29年5月16日(土曜日)
- ↑ 29.0 29.1 官報第4413号 明治31年3月22日(火曜日)
- ↑ 30.0 30.1 官報第4810号 明治32年7月14日(金曜日)
- ↑ 31.0 31.1 官報第4984号 明治33年2月15日(木曜日)
- ↑ 32.0 32.1 官報第5039号 明治33年4月23日(月曜日)
- ↑ 33.0 33.1 官報第6700号 明治38年10月27日(金曜日)
- ↑ 34.0 34.1 官報第7272号 明治40年9月23日(月曜日)
- ↑ 35.0 35.1 官報第8243号 明治43年12月12日(月曜日)
- ↑ 36.0 36.1 官報第813号 大正4年4月21日(水曜日)
- ↑ 37.0 37.1 官報第1310号 大正5年12月13日(水曜日)
- ↑ 38.0 38.1 官報第1633号 大正7年1月15日(火曜日)
- ↑ 39.0 39.1 官報第1642号 大正7年1月25日(金曜日)
- ↑ 40.0 40.1 官報第1680号 大正7年3月12日(火曜日)