東乙彦
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- ひがし おつひこ
- 東 乙彦
- 陸軍中将従三位勲二等
- 砲兵
- 士候4 陸大14
- 山口県
- 明治3年7月9日 - 昭和11年10月13日
経歴
明治3年7月9日 | 生[1] |
明治26年7月25日 | 陸軍士官学校卒業(士候4) |
明治27年3月7日 | 任陸軍砲兵少尉 |
明治30年12月28日 | 陸軍大学校入学 |
明治33年12月20日 | 陸軍大学校卒業(第14期) |
明治40年11月13日 | 任陸軍砲兵中佐 |
明治41年12月21日 | 英国大使館附武官 |
明治43年12月23日 | 野砲兵第6聯隊附 |
明治44年9月9日 | 補野砲兵第8聯隊長[2][3] |
大正2年1月15日 | 任陸軍砲兵大佐 |
大正4年3月27日 | 補第4師団参謀長[3] |
大正6年8月6日 | 陸軍少将・基隆要塞司令官 |
大正7年8月19日 | 台湾総督府陸軍参謀長 |
大正7年11月20日 | 支那公使館附武官 |
大正11年8月15日 | 任陸軍中将[1]・下関要塞司令官 |
大正12年8月6日 | 待命 |
大正12年9月1日 | 予備役[1] |
昭和5年3月4日 | 別当被仰付 朝香宮附ヲ命ス[4] |
昭和8年4月1日 | 後備役[1] |
昭和11年10月13日 | 卒去[5] |
栄典
明治28年12月20日 | 勲六等単光旭日章 年金84円 (明治二十七八年戦役の功)[6] |
明治36年5月16日 | 勲五等瑞宝章[7] |
明治36年7月21日 | 大清帝国三等第二双龍宝星佩用允許[8] |
明治40年8月19日 | フランス共和国四等レジオンドヌール勲章佩用允許 大英帝国四等ヴィクトリア勲章佩用允許[9] |
明治40年12月27日 | 叙正六位[10] |
明治44年5月2日 | 大英帝国三等ヴィクトリア勲章佩用允許[11] |
勲三等瑞宝章 | |
大正1年8月1日 | 韓国併合記念章[12] |
大正2年3月10日 | 叙従五位[13] |
大正6年8月30日 | 叙正五位[14] |
大正8年9月7日 | 中華民国二等嘉禾章佩用允許[15] |
大正9年11月1日 | 勲二等旭日重光章 賜金2800円 大正三年乃至九年戦役従軍記章[16] 戦捷記章[17] |
大正11年3月8日 | 中華民国二等宝光嘉禾章佩用允許[18] |
大正11年9月11日 | 叙従四位[19] |
大正12年4月5日 | 中華民国一等文虎勲章佩用允許[20] |
大正12年10月30日 | 叙正四位(特旨)[21] |
昭和10年4月15日 | 叙従三位[22] |
出典
- 外山操『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』(芙蓉書房、昭和56年)
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 陸軍後備役将校同相当官服役停年名簿. 昭和9年4月1日調
- ↑ 官報第8468号 明治44年9月11日(月曜日)
- ↑ 3.0 3.1 官報第794号 大正4年3月29日(月曜日)
- ↑ 官報第952号 昭和5年3月5日(水曜日)
- ↑ 官報第3106号 昭和12年5月14日(金曜日)
- ↑ 官報第3749号 明治28年12月25日(水曜日)
- ↑ 官報第5960号 明治36年5月18日(月曜日)
- ↑ 官報第6084号 明治36年10月10日(土曜日)
- ↑ 官報第7272号 明治40年9月23日(月曜日)
- ↑ 官報第7352号 明治40年12月28日(土曜日)
- ↑ 官報第8371号 明治44年5月20日(土曜日)
- ↑ 官報第248号 大正2年5月29日(木曜日)
- ↑ 官報第182号 大正2年5月11日(火曜日)
- ↑ 官報第1526号 大正6年9月1日(土曜日)
- ↑ 官報第2130号 大正8年9月9日(火曜日)
- ↑ 官報第2612号 大正10年4月19日(火曜日)
- ↑ 官報第2903号 大正11年4月10日(月曜日)
- ↑ 官報第2879号 大正11年3月10日(金曜日)
- ↑ 官報第3035号 大正11年9月12日(土曜日)
- ↑ 官報第3204号 大正12年4月9日(金曜日)
- ↑ 官報第3358号 大正12年11月1日(木曜日)
- ↑ 官報第2486号 昭和10年4月19日(金曜日)