澁谷伊之彦
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経歴
明治14年11月24日 | 生[1][2] |
明治35年11月22日 | 陸軍士官学校卒業(士候14) |
明治36年6月26日 | 任陸軍歩兵少尉 |
明治41年12月25日 | 陸軍大学校入学 |
明治44年11月29日 | 陸軍大学校卒業(第23期) |
大正9年9月13日 | 国聯陸軍代表随員[4] |
大正11年2月8日 | フランス大使館附武官 |
大正12年8月6日 | 陸軍歩兵大佐 |
大正13年2月4日 | 歩兵第6聯隊長 |
昭和2年7月26日 | 第4師団参謀長 |
昭和4年8月1日 | 陸軍少将・歩兵第33旅団長 |
昭和5年12月22日 | 陸軍戸山学校長 |
昭和8年8月1日 | 陸軍中将 |
昭和9年3月5日 | 第16師団留守司令官 |
昭和10年8月1日 | 第16師団長 |
昭和10年12月2日 | 参謀本部附 |
昭和10年12月14日 | 薨去[3] |
栄典
勲章等
明治36年10月20日 | 叙正八位 |
明治38年3月10日 | 叙従七位 |
明治39年4月1日 | 功五級金鵄勲章(年金300円) 勲六等単光旭日章 明治三十七八年従軍記章 |
明治43年2月21日 | 叙正七位 |
大正2年5月31日 | 勲五等瑞宝章 |
大正4年3月20日 | 叙従六位 |
大正9年4月10日 | 叙正六位 |
大正10年4月1日 | 勲三等瑞宝章 |
大正12年11月30日 | 叙従五位 |
昭和3年12月28日 | 叙正五位 |
昭和8年6月9日 | 勲二等瑞宝章 |
昭和8年9月1日 | 叙従四位[5] |
昭和10年時点 | 勲四等旭日小綬章[1] |
昭和10年10月1日 | 叙正四位 |
昭和10年12月14日 | 薨去[3] 叙従三位(特旨)[6][7] 勲一等瑞宝章 昭和六年乃至九年事変従軍記章 |
外国勲章
- 日付は佩用允許となった日
明治40年6月12日 | プロイセン王国赤鷲剣附第四等勲章[8] |
大正4年3月23日 | フランス共和国レジオンドヌール勲章シュヴァリエ |
大正6年12月18日 | フランス共和国黒星勲章オフィシェ |
大正7年9月17日 | フランス共和国レジオンドヌール勲章オフィシェ |
大正13年7月3日 | フランス共和国レジオンドヌール勲章コマンドール[9] |
昭和9年3月1日 | 満洲国満洲国建国功労章 |
昭和10年時点 | イタリア王国三等聖マウリッツィオ・ラザロ勲章 |
出典
- 外山操『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』(芙蓉書房、昭和56年)
- 官報第6092号 明治36年10月21日(水曜日)
- 官報第6513号 明治38年3月20日(月曜日)
- 官報号外 明治39年12月4日(火曜日)
- 官報第7200号 明治40年7月1日(月曜日)
- 官報第7998号 明治43年2月23日(水曜日)
- 官報第251号 大正2年6月2日(月曜日)
- 官報第789号 大正4年3月23日(火曜日)
- 官報第791号 大正4年3月25日(木曜日)
- 官報第1616号 大正6年12月20日(木曜日)
- 官報第1840号 大正7年9月19日(木曜日)
- 官報第2305号 大正9年4月12日(月曜日)
- 官報第2673号 大正10年6月29日(水曜日)
- 官報第3385号 大正12年12月4日(火曜日)
- 官報第624号 昭和4年1月30日(水曜日)
- 官報第1931号 昭和8年6月10日(土曜日)
- 官報第2511号 昭和10年5月20日(月曜日)
- 官報第2628号 昭和10年10月4日(金曜日)
- 官報第3134号 昭和12年6月16日(水曜日)
- ↑ 1.0 1.1 1.2 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿. 昭和10年9月1日調
- ↑ 2.0 2.1 コトバンクでは11月14日となっているが、「昭和10年実役停年名簿」では11月24日。
- ↑ 3.0 3.1 3.2 『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』及びコトバンクでは昭和10年12月18日死去となっているが、昭和11年1月9日官報及び「故陸軍中将渋谷伊之彦位階追陞ノ件」では12月14日。
- ↑ 官報第2436号 大正9年9月14日(火曜日)
- ↑ 官報第2007号 昭和8年9月7日(木曜日)
- ↑ 官報第2689号 昭和10年12月18日(水曜日)
- ↑ 「故陸軍中将渋谷伊之彦位階追陞ノ件」Ref.A11114338500
- ↑ 官報第7200号 明治40年7月1日(月曜日)
- ↑ 官報第3560号 大正13年7月5日(土曜日)