白川義則
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- しらかわ よしのり
- 白川義則
- 陸軍大将従二位勲一等功二級男爵
- 歩兵
- 士候1 陸大12
- 愛媛県
- 明治1年12月12日 - 昭和7年5月26日戦傷死
経歴
明治1年12月12日 | 生 |
明治23年7月26日 | 陸軍士官学校卒業(士候1) |
明治24年3月26日 | 任陸軍歩兵少尉 |
明治26年11月27日 | 陸軍大学校入学 |
明治27年7月24日 | 陸軍大学校中退 |
明治29年2月29日 | 陸軍大学校復校 |
明治31年12月27日 | 陸軍大学校卒業(第12期) |
明治38年10月27日 | 陸軍省人事局課員 |
明治42年12月26日 | 陸軍歩兵大佐・歩兵第34聯隊長 |
明治44年6月15日 | 第11師団参謀長 |
大正2年9月30日 | 中支那派遣隊司令官 |
大正4年8月10日 | 陸軍少将・歩兵第9旅団長 |
大正5年8月18日 | 陸軍省人事局長 |
大正8年1月15日 | 陸軍中将・陸軍士官学校長 |
大正10年3月11日 | 第11師団長 |
大正11年8月15日 | 第1師団長 |
大正11年10月20日 | 陸軍次官 |
大正11年11月24日 | 兼航空局長官 |
大正12年3月10日 | 兼陸軍航空部本部長(~大正12年8月5日) |
大正12年10月10日 | 関東軍司令官 |
大正14年3月28日 | 陸軍大将 |
大正15年7月28日 | 軍事参議官 |
昭和2年4月20日 | 任陸軍大臣[1] |
昭和4年7月2日 | 依願免本官 補軍事参議官[2] |
昭和7年2月25日 | 上海派遣軍司令官 |
昭和7年5月26日 | 戦傷死 |
栄典
明治25年2月3日 | 叙正八位 |
明治27年10月10日 | 叙従七位 |
明治28年11月28日 | 勲六等単光旭日章 |
明治31年4月16日 | 叙正七位 |
明治35年11月29日 | 勲五等瑞宝章 |
明治36年7月10日 | 叙従六位 |
明治39年4月1日 | 功三級金鵄勲章(年金700円) 勲四等旭日小綬章 明治三十七八年従軍記章[3] |
明治40年5月20日 | 叙正六位 |
明治43年2月21日 | 叙従五位 |
大正3年5月16日 | 勲三等瑞宝章 |
大正4年3月20日 | 叙正五位 |
大正8年2月28日 | 叙従四位 |
大正9年1月30日 | 勲二等瑞宝章 |
大正9年11月1日 | 旭日重光章 賜金2600円 大正三年乃至九年戦役従軍記章[4] 戦捷記章[5] |
大正10年3月30日 | 叙正四位 |
大正10年5月30日 | 銀杯一箇(陸軍治罪法及海軍治罪法改正ニ関シ尽力尠カラス)[6] |
大正11年11月1日 | 勲一等旭日大綬章 賜金1400円(西比利亜地方派遣中ノ功)[7] |
大正13年5月15日 | 叙従三位 |
昭和2年6月1日 | 叙正三位 |
昭和7年5月23日 | 男爵 |
昭和7年5月26日 | 薨去 叙従二位(特旨)[8] 功二級金鵄勲章 授旭日桐花大綬章[8] |
出典
- 外山操『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』(芙蓉書房、昭和56年)