落合忠吉
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- おちあい ちゅうきち
- 落合忠吉
- 陸軍中将功四級
- 輜重兵
- 士候23 陸大34
- 栃木県
- 明治22年6月30日 - 昭和40年6月9日
経歴
明治22年6月30日 | 生 |
明治44年5月27日 | 陸軍士官学校卒業(士候23) |
明治44年12月26日 | 任陸軍輜重兵少尉 |
大正8年12月1日 | 陸軍大学校入学 |
大正11年11月29日 | 陸軍大学校卒業(第34期) |
大正15年3月2日 | 陸軍輜重兵少佐 |
昭和7年4月11日 | 陸軍輜重兵中佐 |
昭和10年12月2日 | 陸軍輜重兵大佐・輜重兵第7大隊長 |
昭和11年6月1日 | 輜重兵第7聯隊長[1] |
昭和12年8月30日 | 北支那方面軍直轄兵站参謀長 |
昭和13年7月15日 | 陸軍自動車学校幹事 |
昭和14年3月9日 | 陸軍少将 |
昭和14年4月8日 | 北支那方面軍兵器部長 |
昭和15年10月22日 | 陸軍自動車学校長 |
昭和16年10月15日 | 陸軍中将・陸軍機甲整備学校長 |
昭和17年4月1日 | 輜重兵監兼大本営陸軍幕僚附 |
昭和19年3月20日 | 補留守第7師団長 |
昭和19年4月1日 | 補第77師団長(親補)[2] |
昭和20年5月23日 | 補北部軍管区司令部附[3] |
昭和20年6月16日 | 補輜重兵監兼大本営陸軍幕僚附 |
昭和40年6月9日 | 死去 |
栄典
昭和4年11月1日 | 勲四等瑞宝章 |
昭和9年2月7日 | 勲三等瑞宝章[4] |
昭和9年4月29日 | 功四級金鵄勲章(年金500円) 旭日中綬章 昭和六年乃至九年事変従軍記章 |
昭和15年1月15日 | 勲二等瑞宝章[5] |
昭和15年8月15日 | 紀元二千六百年祝典記念章 |
出典
- 外山操『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』(芙蓉書房、昭和56年)
- 「JACAR(アジア歴史資料センター)、第54号 昭和19年3月20日 陸軍異動通報(防衛省防衛研究所)」Ref.C12120905400
- 「JACAR(アジア歴史資料センター)、第60号 昭和19年4月1日 陸軍異動通報(防衛省防衛研究所)」Ref.C12120906000
- 「JACAR(アジア歴史資料センター)、第118号 昭和20年5月24日 陸軍異動通報(防衛省防衛研究所)」Ref.C12120942900
- 「JACAR(アジア歴史資料センター)、第141号 昭和20年6月20日 陸軍異動通報(防衛省防衛研究所)」Ref.C12120961300
- 官報第1087号 昭和5年8月13日(水曜日)
- 官報第2487号 昭和10年4月20日(土曜日)
- 官報第4438号 昭和16年10月23日(木曜日)
- ↑ 『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』には昭和11年8月1日近衛師団兵器部長とあるが、濱田五一中佐と重複。昭和11年停年名簿では輜重兵第7聯隊長のまま。
- ↑ 『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』に昭和19年4月6日とあるのは誤り。
- ↑ 『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』に昭和20年5月5日教育総監部附とあるのは誤り。
- ↑ 官報第2130号 昭和9年2月9日(金曜日)
- ↑ 官報第3907号 昭和15年1月18日(木曜日)