西寬二郎
(西寛二郎から転送)
- にし かんじろう
- 西 寬二郎
- 陸軍大将正二位勲一等功一級子爵
- 歩兵
- 鹿児島県華族
- 弘化3年3月10日 - 明治45年2月28日[1]
経歴
弘化3年3月10日 | 生 |
明治4年7月25日 | 任陸軍中尉(初任) |
明治4年12月4日 | 任陸軍大尉 |
明治6年12月14日 | 任陸軍少佐 |
明治12年3月20日 | 任陸軍中佐[2] |
明治14年 | 歩兵第11聯隊長[3] |
明治15年2月6日 | 任陸軍歩兵大佐[4] |
明治15年3月9日 | 名古屋鎮台参謀長 |
明治19年5月27日 | 東京鎮台参謀長 |
明治20年6月3日 | 参謀本部第1局長 |
明治22年3月12日 | 歩兵第11旅団長心得 |
明治22年8月24日 | 任陸軍少将・歩兵第11旅団長 |
明治23年6月7日 | 歩兵第2旅団長 |
明治29年5月21日 | 兼威海衛占領軍司令官 |
明治29年10月14日 | 任陸軍中将・第2師団長 |
明治37年2月5日 | 動員下令(日露戦争) |
明治37年6月6日 | 任陸軍大将 |
明治37年9月8日 | 遼東守備軍司令官 |
明治38年5月9日 | 教育総監 |
明治39年6月15日 | 兼陸軍軍制調査委員長 |
明治40年1月17日 | 貞愛親王英国差遣に付随員 |
明治40年7月14日 | 帰朝 |
明治41年12月21日 | 軍事参議官 |
明治44年3月10日 | 後備役 |
明治45年2月28日 | 薨去[1] |
栄典
明治18年4月7日 | 勲三等旭日中綬章 |
明治22年11月25日 | 大日本帝国憲法発布記念章 |
明治27年10月26日 | 叙正四位[5] |
明治28年5月23日 | 叙勲二等授瑞宝章[6] |
明治28年8月20日 | 男爵 功三級金鵄勲章 授旭日重光章 |
明治28年11月18日 | 明治二十七八年従軍記章 |
明治36年5月16日 | 勲一等瑞宝章[7] |
明治39年4月1日 | 功一級金鵄勲章(年金1500円) 授旭日大綬章 明治三十七八年従軍記章[8] |
明治40年9月21日 | 子爵 |
明治42年7月10日 | 叙従二位 |
明治45年2月28日 | 薨去[1] 叙正二位(特旨) 授旭日桐花大綬章 |
出典
- 外山操『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』(芙蓉書房、昭和56年)
- 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿. 明治36年7月1日調
- 官報第7813号 明治42年7月12日(月曜日)
- 官報第8606号 明治45年2月29日(木曜日)
- ↑ 1.0 1.1 1.2 『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』に1月28日とあるのは誤り。
- ↑ 明治36年停年名簿には3月20日となっているが、「陸軍省日誌」には3月24日。
- ↑ 『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』に明治12年3月24日とあるが、その時は長谷川好道が在職中。
- ↑ 『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』に2月18日とあるのは誤り。
- ↑ 官報第3401号 明治27年10月27日(土曜日)
- ↑ 官報第3578号 明治28年6月5日(水曜日)
- ↑ 官報第5960号 明治36年5月18日(月曜日)
- ↑ 官報号外 明治39年12月30日(日曜日)