小柳津正藏
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- おやいづ しょうぞう
- 小柳津正藏
- 陸軍中将正四位勲二等功五級
- 砲兵
- 士候13 砲工高13
- 東京都
- 明治14年5月24日 -
経歴
- 東大物理卒
明治14年5月24日 | 生 |
明治34年11月22日 | 陸軍士官学校卒業(士候13) |
明治35年6月23日 | 任陸軍砲兵少尉 |
明治40年12月18日 | 陸軍砲工学校高等科卒業(第13期) |
陸軍兵器本廠附被仰付 | |
大正9年8月10日 | 任陸軍砲兵中佐 補野砲兵第6聯隊附 |
大正10年8月8日 | 補陸軍技術本部部員 |
大正11年3月25日 | 兼任特許局技師 叙高等官四等 |
大正11年12月15日 | 兼補陸軍野戦砲兵学校研究部部員 |
大正12年12月11日 | 兼補陸軍重砲兵学校研究部部員 |
大正13年2月4日 | 任陸軍砲兵大佐 陸軍技術本部附 兼陸軍野戦砲兵学校研究部部員 陸軍重砲兵学校研究部部員被仰付[1] |
大正13年6月30日 | 陞叙高等官三等 |
大正14年9月18日 | 補陸軍技術本部附 米国駐在被仰付 |
昭和3年3月8日 | 米国駐在被免 陸軍技術本部附被仰付 |
昭和3年8月10日 | 補陸軍造兵廠東京工廠長[2] |
昭和4年8月1日 | 任陸軍少将 |
昭和7年4月11日 | 補陸軍造兵廠大阪工廠長 |
昭和8年8月1日 | 任陸軍中将 待命被仰付 |
昭和8年8月30日 | 予備役 |
栄典
明治39年4月1日 | 功五級金鵄勲章(年金300円) 勲六等単光旭日章 明治三十七八年従軍記章 |
大正13年3月29日 | 叙従五位 |
昭和4年5月2日 | 叙正五位[3] |
昭和8年8月28日 | 勲二等瑞宝章[4] |
昭和9年4月29日 | 旭日重光章 昭和六年乃至九年事変従軍記章[5] |
昭和15年8月15日 | 紀元二千六百年祝典記念章[6] |
出典
- 外山操『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』(芙蓉書房、昭和56年)
- 官報第7030号 明治39年12月4日(火曜日)
- 官報第2408号 大正9年8月11日(水曜日)
- 官報第2707号 大正10年8月9日(火曜日)
- 官報. 1922年03月27日
- 官報第3114号 大正11年12月16日(土曜日)
- 官報第3393号 大正12年12月13日(木曜日)
- 官報第3435号 大正13年2月7日(木曜日)
- 官報第3501号 大正13年4月28日(月曜日)
- 官報. 1924年07月01日
- 官報. 1925年09月19日
- 官報第357号 昭和3年3月9日(金曜日)
- 官報第488号 昭和3年8月11日(土曜日)
- 官報第778号 昭和4年8月2日(金曜日)
- 官報第1583号 昭和7年4月12日(火曜日)
- 官報第1976号 昭和8年8月2日(水曜日)
- ↑ 『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』には大正13年12月5日に”兵本附”とあるが、大正14年9月19日官報での前職は大正13年2月7日官報に記載の「陸軍技術本部附兼陸軍野戦砲兵学校研究部部員陸軍重砲兵学校研究部部員」なので”兵本附”は誤りか。
- ↑ 『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』にある”陸軍造兵廠東京工廠附兼陸軍造兵廠附”は誤り。
- ↑ 官報第771号 昭和4年7月25日(木曜日)
- ↑ 官報第2005号 昭和8年9月5日(火曜日)
- ↑ 官報第2603号 昭和10年9月4日(水曜日)
- ↑ 官報第4438号 昭和16年10月23日(木曜日)