賀陽宮恒憲王
(恒憲王から転送)
- かやのみや つねのりおう
- 賀陽宮恒憲王
- 陸軍中将大勲位功三級
- 騎兵
- 士候32 陸大38
- 皇族
- 明治33年1月27日 - 昭和53年1月3日
経歴
明治33年1月27日 | 誕生 |
大正9年5月25日 | 陸軍士官学校卒業(士候32) |
大正9年12月25日 | 任陸軍騎兵少尉 補騎兵第1聯隊附 |
大正12年12月26日 | 陸軍大学校入学 |
大正15年12月7日 | 陸軍大学校卒業(第38期) |
昭和10年8月1日 | 騎兵第10聯隊長 |
昭和11年12月1日 | 騎兵第16聯隊長 |
昭和12年11月1日 | 陸軍大学校教官 |
昭和13年3月1日 | 任陸軍騎兵大佐 |
昭和13年7月15日 | 中支那派遣軍参謀 |
昭和14年6月15日 | 参謀本部部員 |
昭和14年7月5日 | 大本営参謀 |
昭和15年12月2日 | 陸軍少将・騎兵第2旅団長 |
昭和16年7月1日 | 近衛混成旅団長 |
昭和17年3月2日 | 陸軍戸山学校長 |
昭和18年3月1日 | 任陸軍中将・留守第3師団長 |
昭和18年6月10日 | 補第43師団長(親補) |
昭和19年4月6日 | 補近衛第3師団長(親補)[1] |
昭和19年7月18日 | 補陸軍航空総監部附 |
昭和20年3月9日 | 補陸軍大学校長 |
昭和20年9月16日 | 補軍事参議官 |
昭和20年11月16日 | 待命被仰付 |
昭和20年11月17日[2] | 予備役被仰付 |
昭和53年1月3日 | 薨去 |
栄典
大正4年11月10日 | 大礼記念章[3] |
大正9年12月25日 | 勲一等旭日桐花大綬章 |
昭和5年12月5日 | 帝都復興記念章 |
昭和9年4月29日 | 金杯一箇 昭和六年乃至九年事変従軍記章[4] |
昭和5年12月7日 | 大勲位菊花大綬章 |
昭和15年8月15日 | 紀元二千六百年祝典記念章[5] |
出典
- 外山操『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』(芙蓉書房、昭和56年)
- 「JACAR(アジア歴史資料センター)、第38号 昭和18年3月1日 陸軍異動通報 (防衛省防衛研究所)」Ref.C12120885000
- 「JACAR(アジア歴史資料センター)、第107号 昭和18年6月11日 陸軍異動通報(防衛省防衛研究所)」Ref.C12120890900
- 「JACAR(アジア歴史資料センター)、第62号 昭和19年4月7日 陸軍異動通報(防衛省防衛研究所)」Ref.C12120906200
- 「JACAR(アジア歴史資料センター)、第138号 昭和19年7月19日 陸軍異動通報(防衛省防衛研究所)」Ref.C12120914600
- 「JACAR(アジア歴史資料センター)、第55号 昭和20年3月10日 陸軍異動通報(防衛省防衛研究所)」Ref.C12120935900
- 「JACAR(アジア歴史資料センター)、第2号 昭和20年9月30日 陸軍異動通報(防衛省防衛研究所)」Ref.C12120963300
- 「JACAR(アジア歴史資料センター)、第5号 昭和20年11月30日 陸軍異動通報(防衛省防衛研究所)」Ref.C12120963500
- 官報第2524号 大正9年12月29日(水曜日)
- 官報第1499号 昭和6年12月28日(月曜日)
- 官報第3346号 昭和13年3月2日(水曜日)
- ↑ 『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』に留守近衛第2師団長とあるのは誤り。
- ↑ 『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』に11月30日とあるのは誤り。
- ↑ 官報第1764号 大正7年6月20日(木曜日)
- ↑ 官報第2598号 昭和10年8月29日(木曜日)
- ↑ 官報第4438号 昭和16年10月23日(木曜日)