柳川平助
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- やながわ へいすけ
- 柳川平助
- 陸軍中将従二位勲一等功二級
- 騎兵
- 士候12 陸大24優等
- 佐賀県
- 明治12年10月2日 - 昭和20年1月22日
経歴
明治12年10月2日 | 生 |
明治32年12月1日 | 陸軍士官学校入校 |
明治33年11月21日 | 陸軍士官学校卒業(士候12) |
明治33年11月26日 | 見習士官ヲ命ス |
明治34年6月25日 | 任陸軍騎兵少尉 |
明治36年11月1日 | 任陸軍騎兵中尉 |
明治38年6月27日 | 任陸軍騎兵大尉 |
明治42年12月25日 | 陸軍大学校入学 |
大正1年11月25日 | 陸軍大学校卒業(第24期優等) |
大正3年6月26日 | 任陸軍騎兵少佐 |
大正7年7月24日 | 任陸軍騎兵中佐 |
大正9年8月10日 | 参謀本部附(国聯派遣) |
大正11年8月15日 | 任陸軍騎兵大佐 |
大正12年3月17日 | 騎兵第20聯隊長 |
大正14年5月1日 | 参謀本部演習課長 |
昭和2年4月1日 | 任陸軍少将・騎兵第1旅団長 |
昭和4年8月1日 | 陸軍騎兵学校長 |
昭和5年12月22日 | 騎兵監 |
昭和6年12月12日 | 任陸軍中将 |
昭和7年8月8日 | 陸軍次官 |
昭和9年8月1日 | 第1師団長 |
昭和10年12月2日 | 台湾軍司令官 |
昭和11年8月1日 | 参謀本部附 |
昭和11年9月19日 | 待命 |
昭和11年9月26日 | 予備役 |
昭和12年10月14日 | 第10軍司令官 |
昭和13年3月9日 | 召集解除 |
昭和13年12月16日 | 任興亜院総務長官 叙高等官一等 賜一級俸 |
昭和15年12月21日 | 任司法大臣 |
昭和16年7月18日 | 任国務大臣(~昭和16年10月18日) |
昭和20年1月22日 | 薨去(病没) 叙従二位(特旨) |
栄典
明治34年10月10日 | 叙正八位[1] |
明治37年2月19日 | 叙従七位[2] |
明治38年8月11日 | 叙正七位[3] |
明治39年4月1日 | 功五級金鵄勲章(年金300円) 勲五等双光旭日章 明治三十七八年従軍記章 |
明治43年9月30日 | 叙従六位[4] |
大正4年10月30日 | 叙正六位[5] |
大正9年11月30日 | 叙従五位[6] |
大正10年8月6日 | 中華民国三等文虎勲章佩用允許[7] |
大正12年1月30日 | 勲三等瑞宝章[8] |
大正14年12月28日 | 叙正五位[9] |
昭和2年時点 | 勲五等双光旭日章 功五級金鵄勲章 スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国三等レーグル・ブラン |
昭和6年1月16日 | 叙従四位[10] |
昭和7年 | 勲二等瑞宝章 |
昭和9年4月29日 | 勲一等旭日大綬章 |
昭和9年9月1日 | 叙正四位[11] |
昭和11年10月23日 | 叙従三位(特旨)[12] |
昭和15年4月29日 | 功二級金鵄勲章 |
昭和15年8月15日 | 紀元二千六百年祝典記念章[13] |
昭和15年12月28日 | 叙正三位[14] |
昭和19年9月12日 | 勲一等瑞宝章 |
昭和20年1月22日 | 薨去 叙従二位(特旨)[15] |
出典
- ↑ 官報第5484号 明治34年10月11日(金曜日)
- ↑ 官報第6188号 明治37年2月20日(土曜日)
- ↑ 官報第6640号 明治38年8月17日(木曜日)
- ↑ 官報第8185号 明治43年10月1日(土曜日)
- ↑ 官報第976号 大正4年11月1日(月曜日)
- ↑ 官報第2500号 大正9年12月1日(水曜日)
- ↑ 官報第2707号 大正10年8月9日(火曜日)
- ↑ 官報第3148号 大正12年1月31日(水曜日)
- ↑ 官報第4046号 大正15年2月22日(月曜日)
- ↑ 官報第1225号 昭和6年1月31日(土曜日)
- ↑ 官報第2307号 昭和9年9月7日(金曜日)
- ↑ 官報第2945号 昭和11年10月24日(土曜日)
- ↑ 官報第4438号 昭和16年10月23日(木曜日)
- ↑ 官報第4225号 昭和16年2月7日(金曜日)
- ↑ 官報第5407号 昭和20年1月26日(金曜日)