淺田信興
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- あさだ のぶおき
- 淺田信興
- 陸軍大将従二位勲一等功二級男爵
- 歩兵
- 埼玉県華族[1]
- 嘉永4年10月12日 - 昭和2年4月27日
経歴
嘉永4年10月12日 | 生 |
明治5年3月16日 | 任陸軍少尉 |
明治6年10月4日 | 任陸軍中尉 |
明治11年12月4日 | 任陸軍大尉 |
明治17年3月24日 | 任陸軍歩兵少佐 |
明治24年6月18日 | 任陸軍歩兵中佐 |
明治25年10月1日 | 歩兵第2聯隊長 |
明治26年9月14日 | 屯田兵参謀長 |
明治27年11月11日 | 任陸軍歩兵大佐 |
明治29年5月12日 | 第7師団参謀長 |
明治29年10月15日 | 東部都督部参謀長 |
明治30年9月28日 | 任陸軍少将 |
明治31年10月1日 | 歩兵第20旅団長 |
明治34年4月8日 | 補歩兵第5旅団長[2] |
明治35年5月5日 | 近衛歩兵第1旅団長 |
明治37年9月8日 | 陸軍中将・近衛師団長 |
明治39年7月6日 | 第12師団長 |
明治43年8月26日 | 第4師団長 |
明治44年9月6日 | 教育総監 |
大正1年8月10日 | 陸軍大将 |
大正3年4月22日 | 軍事参議官(親補) |
大正3年9月15日 | 兼東京衛戍総督(親補)[3] |
大正4年5月24日 | 免兼職 |
大正5年10月12日 | 後備役被仰付[4] |
大正10年4月1日 | 退役[5] |
昭和2年4月27日 | 薨去 |
栄典
明治22年11月29日 | 大日本帝国憲法発布記念章 |
明治26年11月29日 | 勲三等瑞宝章 |
明治30年10月20日 | 叙正五位 |
明治35年12月10日 | 叙従四位 |
明治36年5月16日 | 勲二等瑞宝章[6] |
明治37年12月16日 | 叙正四位 |
明治39年4月1日 | 功二級金鵄勲章(年金1000円) 勲一等旭日大綬章 明治三十七八年従軍記章[7] |
明治40年9月21日 | 男爵 |
明治40年12月27日 | 叙従三位 |
大正1年8月1日 | 韓国併合記念章 |
大正1年9月10日 | 叙正三位[8] |
大正4年11月7日 | 金杯一組 大正三四年従軍記章[9] |
大正4年11月10日 | 大礼記念章[10] |
大正5年11月10日 | 叙従二位 |
大正7年6月18日 | 中華民国一等文虎勲章佩用允許[11] |
昭和2年4月27日 | 薨去 授旭日桐花大綬章 |
出典
- 外山操『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』(芙蓉書房、昭和56年)
- 官報第1938号 明治22年12月12日(木曜日)
- 官報第466号 大正3年2月19日(木曜日)
- 官報第842号 大正4年5月25日(火曜日)
- 官報第1262号 大正5年10月13日(金曜日)
- 官報第1284号 大正5年11月11日(土曜日)
- 官報第99号 昭和2年5月2日(月曜日)
- 官報第100号 昭和2年5月3日(火曜日)
- ↑ 明治36年停年名簿では「東京、士族」
- ↑ 官報第5326号 明治34年4月9日(火曜日)
- ↑ 官報第639号 大正3年9月16日(水曜日)
- ↑ 『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』に10月2日予備役とあるのは誤り。
- ↑ 官報第2607号 大正10年4月13日(水曜日)
- ↑ 官報第5960号 明治36年5月18日(月曜日)
- ↑ 官報号外 明治39年12月30日(日曜日)
- ↑ 官報第37号 大正1年9月11日(水曜日)
- ↑ 官報第1187号 大正5年7月15日(土曜日)
- ↑ 官報第1310号 大正5年12月13日(水曜日)
- ↑ 官報第1764号 大正7年6月20日(木曜日)