秦彦三郎
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- はた ひこさぶろう
- 秦 彦三郎
- 陸軍中将勲一等
- 歩兵
- 士候24 陸大31
- 三重県
- 明治23年10月1日 - 昭和34年3月20日
経歴
明治23年10月1日 | 生 |
明治45年5月28日 | 陸軍士官学校卒業(士候24) |
大正1年12月24日 | 任陸軍歩兵少尉 |
大正5年12月9日 | 陸軍大学校入学 |
大正8年11月26日 | 陸軍大学校卒業(第31期) |
昭和9年3月5日 | ソ聯大使館附武官 |
昭和11年3月7日 | 陸軍歩兵大佐・陸軍省新聞班長 |
昭和12年8月2日 | 歩兵第57聯隊長 |
昭和13年7月15日 | ハルピン特務機関長 |
昭和14年3月9日 | 陸軍少将 |
昭和15年3月9日 | 関東軍参謀副長兼満洲国大使館附武官 |
昭和16年5月9日 | 北支那方面軍司令部附 |
昭和16年7月23日 | 関東軍参謀副長兼満洲国大使館附武官(~昭和17年7月1日) |
昭和16年10月15日 | 陸軍中将 |
昭和17年10月8日 | 第34師団長(親補) |
昭和18年3月25日 | 補参謀本部附 |
昭和18年4月8日 | 補参謀次長兼兵站総監 |
昭和19年3月22日 | 兼補陸軍大学校長 |
昭和19年8月3日 | 免兼陸軍大学校長 |
昭和20年4月7日 | 補関東軍総参謀長兼関東軍補給監 |
昭和20年9月 | シベリア抑留 |
昭和31年12月26日 | 復員 |
昭和34年3月20日 | 死去 |
栄典
大正2年2月20日 | 叙正八位[1] |
大正5年3月20日 | 叙従七位[2] |
昭和15年8月15日 | 紀元二千六百年祝典記念章[3] |
昭和20年6月30日 | 勲一等瑞宝章 |
出典
- 外山操『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』(芙蓉書房、昭和56年)
- 「JACAR(アジア歴史資料センター)、第57号 昭和18年3月25日 陸軍異動通報(防衛省防衛研究所)」Ref.C12120886000
- 「JACAR(アジア歴史資料センター)、第67号 昭和18年4月8日 陸軍異動通報(防衛省防衛研究所)」Ref.C12120887000
- 「JACAR(アジア歴史資料センター)、第55号 昭和19年3月22日 陸軍異動通報(防衛省防衛研究所)」Ref.C12120905500
- 「JACAR(アジア歴史資料センター)、第154号 昭和19年8月4日 陸軍異動通報(防衛省防衛研究所)」Ref.C12120916300
- 「JACAR(アジア歴史資料センター)、第83号 昭和20年4月8日 陸軍異動通報(防衛省防衛研究所)」Ref.C12120939300