與倉喜平
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- よくら きへい
- 與倉喜平
- 陸軍中将正四位勲二等功三級
- 歩兵
- 士官生徒10 陸大11
- 鹿児島県士族
- 慶応1年9月15日 - 大正8年6月1日
経歴
- 宮崎県士族中萬彌九郎の二男
- 妻幹は陸軍中佐與倉知實(戦死)・鶴子の長女
- 長男知弘・三女元子・四女貞子・五女靖子・二男淳雄・六女操子
- 長女須磨子は莊田平象に嫁す(東京府士族莊田平五郎二男)
- 二女登幾は東京府平民横山勇に嫁す
慶応1年9月15日 | 生 |
明治21年7月28日 | 任陸軍歩兵少尉 |
明治25年11月1日 | 任陸軍歩兵中尉[1][2] |
明治25年12月 | 陸軍大学校入学 |
明治27年7月24日 | 陸軍大学校中退 |
明治28年11月1日 | 任陸軍歩兵大尉[2] |
明治29年2月29日 | 陸軍大学校復校 |
明治30年12月13日 | 陸軍大学校卒業(第11期) |
明治35年2月12日 | 任陸軍歩兵少佐[3] |
明治36年時点 | 参謀本部附[4] |
明治38年3月1日 | 任陸軍歩兵中佐[5] |
明治39年9月1日 | 関東都督府陸軍部附被仰付[6] |
明治39年12月27日 | 歩兵第1聯隊附被仰付[7] |
明治40年2月13日 | 補歩兵第1聯隊附[8] |
明治40年11月5日 | 歩兵第1聯隊附被仰付[9] |
明治40年11月13日 | 任陸軍歩兵大佐[10] |
明治41年12月21日 | 補歩兵第1聯隊長[11] |
明治45年3月5日 | 中清派遣隊司令官被仰付[12] |
大正2年9月30日 | 任陸軍少将 補歩兵第35旅団長[13] |
大正4年2月15日 | 陸軍士官学校長 |
大正7年7月24日 | 任陸軍中将[14] |
大正8年1月15日 | 待命被仰付[15] |
大正8年6月1日 | 卒去[16] |
栄典
明治24年12月9日 | 叙正八位[17] |
明治26年1月10日 | 叙従七位[18] |
明治29年3月30日 | 勲六等単光旭日章 賜金200円 (明治二十七八年戦役の功)[19] |
明治29年5月15日 | 叙正七位[20] |
明治34年8月31日 | 叙従六位[21] |
明治34年12月28日 | 賜金100円 (明治三十三年清国事変の功)[22] |
明治35年5月10日 | 明治三十三年従軍記章[23] |
明治35年5月31日 | 勲五等瑞宝章[24] |
明治38年4月7日 | 叙正六位[25] |
明治38年11月30日 | 勲四等瑞宝章[26] |
明治39年4月1日 | 功三級金鵄勲章(年金700円) 勲三等旭日中綬章 明治三十七八年従軍記章[27][28] |
明治40年12月27日 | 叙従五位[29] |
大正2年1月30日 | 叙正五位[30] |
大正2年12月12日 | タイ王国白象第三等勲章佩用允許[31] |
大正4年11月7日 | 大正三四年従軍記章[32] |
大正4年11月10日 | 大礼記念章[32] |
大正7年2月28日 | 叙従四位[33] |
大正7年6月18日 | 中華民国二等文虎勲章佩用允許[34] |
大正8年6月1日 | 卒去 叙正四位(特旨)[35] |
大正8年6月3日 | 葬送ニ付勅使トシテ清水谷實英差遣、幣帛下賜[36] |
出典
- 外山操『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』(芙蓉書房、昭和56年)
- ↑ 1.0 1.1 官報第2806号 明治25年11月2日(水曜日)
- ↑ 2.0 2.1 2.2 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿. 大正6年9月1日調
- ↑ 3.0 3.1 官報第5580号 明治35年2月13日(木曜日)
- ↑ 4.0 4.1 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿. 明治36年7月1日調
- ↑ 5.0 5.1 官報第6499号 明治38年3月3日(金曜日)
- ↑ 6.0 6.1 官報第6955号 明治39年9月3日(月曜日)
- ↑ 7.0 7.1 官報第7051号 明治39年12月28日(金曜日)
- ↑ 8.0 8.1 官報第7085号 明治40年2月14日(木曜日)
- ↑ 9.0 9.1 官報第7308号 明治40年11月6日(水曜日)
- ↑ 10.0 10.1 官報第7315号 明治40年11月14日(木曜日)
- ↑ 11.0 11.1 官報第7648号 明治41年12月22日(火曜日)
- ↑ 12.0 12.1 官報第8611号 明治45年3月6日(水曜日)
- ↑ 13.0 13.1 官報第353号 大正2年10月1日(水曜日)
- ↑ 14.0 14.1 官報第1794号 大正7年7月25日(木曜日)
- ↑ 15.0 15.1 官報第1934号 大正8年1月16日(木曜日)
- ↑ 16.0 16.1 官報第2084号 大正8年7月16日(水曜日)
- ↑ 17.0 17.1 官報第2535号 明治24年12月10日(木曜日)
- ↑ 18.0 18.1 官報第2858号 明治26年1月11日(水曜日)
- ↑ 19.0 19.1 官報号外 明治29年4月16日(木曜日)
- ↑ 20.0 20.1 官報第3862号 明治29年5月16日(土曜日)
- ↑ 21.0 21.1 官報第5451号 明治34年9月2日(月曜日)
- ↑ 22.0 22.1 官報第5613号 明治35年3月25日(火曜日)
- ↑ 23.0 23.1 官報第5820号 明治35年11月26日(水曜日)
- ↑ 24.0 24.1 官報第5671号 明治35年6月2日(月曜日)
- ↑ 25.0 25.1 官報第6531号 明治38年4月12日(水曜日)
- ↑ 26.0 26.1 官報第6728号 明治38年12月2日(土曜日)
- ↑ 27.0 27.1 官報号外 明治39年12月8日(土曜日)
- ↑ 28.0 28.1 『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』に"功四"とあるのは誤り。
- ↑ 29.0 29.1 官報第7352号 明治40年12月28日(土曜日)
- ↑ 30.0 30.1 官報第150号 大正2年1月31日(金曜日)
- ↑ 31.0 31.1 官報第417号 大正2年12月17日(水曜日)
- ↑ 32.0 32.1 32.2 官報第1310号 大正5年12月13日(水曜日)
- ↑ 33.0 33.1 官報第1671号 大正7年3月1日(金曜日)
- ↑ 34.0 34.1 官報第1764号 大正7年6月20日(木曜日)
- ↑ 35.0 35.1 官報第2048号 大正8年6月3日(火曜日)
- ↑ 36.0 36.1 官報第2049号 大正8年6月4日(水曜日)