菊池愼之助
(菊池慎之助から転送)
- きくち しんのすけ
- 菊池愼之助
- 陸軍大将従二位勲一等功三級
- 歩兵
- 士官生徒11 陸大11
- 茨城県
- 慶応2年2月15日 - 昭和2年8月22日
経歴
慶応2年2月15日 | 生 |
明治22年7月26日 | 任陸軍歩兵少尉 |
明治25年12月 | 陸軍大学校入学 |
明治27年7月24日 | 陸軍大学校中退 |
明治29年2月29日 | 陸軍大学校復校 |
明治30年12月13日 | 陸軍大学校卒業(第11期) |
明治40年4月20日 | 参謀本部附 |
明治40年11月13日 | 任陸軍歩兵大佐[1] |
明治41年12月28日 | 第16師団参謀長 |
明治43年11月30日 | 陸軍士官学校生徒隊長 |
大正2年6月9日 | 陸軍少将・歩兵第5旅団長 |
大正4年1月25日 | 陸軍省人事局長 |
大正5年8月18日 | 参謀本部総務部長 |
大正6年8月6日 | 陸軍中将 |
大正7年10月10日 | 教育総監部本部長 |
大正8年11月25日 | 第3師団長(親補) |
大正10年5月4日 | 補参謀次長 陸軍功績審査委員被仰付[2] |
大正11年11月24日 | 朝鮮軍司令官(親補) |
大正12年8月6日 | 陸軍大将 |
大正13年8月20日 | 補軍事参議官兼東京警備司令官(親補)[3] |
大正15年3月2日 | 補教育総監兼軍事参議官(親補)[4] |
大正15年5月13日 | 補議定官 |
昭和2年8月22日 | 薨去 |
栄典
明治25年2月3日 | 叙正八位 |
明治26年12月16日 | 叙従七位 |
功五級金鵄勲章 | |
明治39年4月1日 | 功三級金鵄勲章(年金700円) 勲三等旭日中綬章 明治三十七八年従軍記章[5] |
明治40年12月27日 | 叙従五位 |
明治44年5月9日 | バイエルン王国武功オフィシェー勲章佩用允許[6] |
明治45年時点 | 勲三等旭日中綬章 勲四等瑞宝章 大清帝国二等第二双龍宝星[7] |
大正2年1月30日 | 叙正五位 |
大正4年11月7日 | 勲二等瑞宝章 賜金1500円 大正三四年従軍記章[8] |
大正4年11月10日 | 大礼記念章[9] |
大正6年8月30日 | 叙従四位[10] |
大正7年5月23日 | 中華民国二等文虎勲章佩用允許 |
大正9年時点 | 中華民国二等嘉禾章[11] |
大正9年11月1日 | 勲一等旭日大綬章 賜金2800円 大正三年乃至九年戦役従軍記章[12] 戦捷記章[13] |
大正10年5月30日 | 金杯一箇(陸軍治罪法及海軍治罪法改正ニ関シ尽力尠カラス)[14] |
大正10年7月1日 | 第一回国勢調査記念章[15] |
大正11年12月20日 | 叙従三位 |
大正12年時点 | フランス共和国二等レジオンドヌール勲章[16] |
大正14年12月28日 | 叙正三位 |
昭和2年8月22日 | 薨去 叙従二位(特旨)[17] |
出典
- 外山操『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』(芙蓉書房、昭和56年)
- 官報第1743号 大正7年5月27日(月曜日)
- ↑ 官報第7315号 明治40年11月14日(木曜日)
- ↑ 官報第2626号 大正10年5月5日(木曜日)
- ↑ 官報第3599号 大正13年8月21日(木曜日)
- ↑ 官報第4054号 大正15年3月3日(水曜日)
- ↑ 官報号外 明治39年12月11日(火曜日)
- ↑ 官報第8382号 明治44年6月2日(金曜日)
- ↑ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿. 明治45年7月1日調
- ↑ 官報第1190号 大正5年7月19日(水曜日)
- ↑ 官報第1310号 大正5年12月13日(水曜日)
- ↑ 官報第1526号 大正6年9月1日(土曜日)
- ↑ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿. 大正9年9月1日調
- ↑ 官報第2612号 大正10年4月19日(火曜日)
- ↑ 官報第2903号 大正11年4月10日(月曜日)
- ↑ 官報第2648号 大正10年5月31日(火曜日)
- ↑ 官報第2858号 大正11年2月14日(火曜日)
- ↑ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿. 大正12年9月1日調
- ↑ 官報第198号 昭和2年8月25日(木曜日)