長野幾磨
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- ながの いくま
- 長野幾磨
- 陸軍少将従四位勲三等功五級
- 歩兵
- 士候9 陸大20首席
- 福岡県士族
- 明治9年1月 - 大正15年1月6日
経歴
- 『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』に「幾麿」とあるのは誤り。
- 露駐在
明治9年1月 | 生 |
明治30年11月29日 | 陸軍士官学校卒業(士候9) |
明治31年6月27日 | 任陸軍歩兵少尉 |
明治36年8月3日 | 陸軍大学校入学 |
明治37年2月9日 | 陸軍大学校中退 |
明治39年3月20日 | 陸軍大学校復校 |
明治41年11月30日 | 陸軍大学校卒業(第20期首席) |
明治42年11月30日 | 任陸軍歩兵少佐[1] |
大正4年8月10日 | 任陸軍歩兵中佐[2] |
参謀本部附被仰付[3] | |
大正5年8月18日 | 補和歌山聯隊区司令官[3][4] |
大正7年7月19日 | 補歩兵第80聯隊長[4] |
大正7年7月24日 | 任陸軍歩兵大佐[5] |
大正10年6月3日 | 教育総監部第2課長 |
大正11年11月24日 | 任陸軍少将[6]・第7師団司令部附 |
大正13年2月4日 | 歩兵第14旅団長 |
大正13年12月15日 | 待命 |
大正13年12月20日 | 予備役[7] |
大正15年1月6日 | 死去 |
栄典
明治37年5月17日 | 叙正七位[8] |
明治39年4月1日 | 功五級金鵄勲章(年金300円) 勲五等双光旭日章 明治三十七八年従軍記章 |
明治42年7月10日 | 叙従六位[9] |
明治45年時点 | 大清帝国三等第三双龍宝星[1] |
明治45年時点 | 大韓帝国勲四等太極章[1] |
大正3年時点 | 勲四等瑞宝章[10] |
大正3年7月31日 | 叙正六位[11] |
大正4年11月7日 | 旭日小綬章 賜金580円 大正三四年従軍記章[12] |
大正5年1月11日 | ロシア帝国聖スタニスラス第二等勲章佩用允許 ロシア帝国聖ウラジーミル第四等勲章佩用允許[13][2] |
大正7年7月14日 | 戦捷記章[14] |
大正7年8月30日 | 叙従五位[15] |
大正8年5月30日 | 勲三等瑞宝章[16] |
大正9年11月1日 | 旭日中綬章 賜金930円 大正三年乃至九年戦役従軍記章[17] |
大正12年時点 | 正五位[6] |
大正14年1月19日 | 叙従四位(特旨)[18][7] |
出典
- 外山操『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』(芙蓉書房、昭和56年)
- 官報号外 明治39年12月8日(土曜日)
- 官報第19号 昭和2年1月22日(土曜日)
- ↑ 1.0 1.1 1.2 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿. 明治45年7月1日調
- ↑ 2.0 2.1 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿. 大正6年9月1日調
- ↑ 3.0 3.1 官報第1217号 大正5年8月19日(土曜日)
- ↑ 4.0 4.1 官報第1790号 大正7年7月20日(土曜日)
- ↑ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿. 大正9年9月1日調
- ↑ 6.0 6.1 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿. 大正12年9月1日調
- ↑ 7.0 7.1 陸軍予備役将校同相当官服役停年名簿. 大正15年4月1日調
- ↑ 官報第6267号 明治37年5月24日(火曜日)
- ↑ 官報第7813号 明治42年7月12日(月曜日)
- ↑ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿. 大正3年7月1日調
- ↑ 官報第601号 大正3年8月1日(土曜日)
- ↑ 官報第1189号 大正5年7月18日(火曜日)
- ↑ 官報第1032号 大正5年1月13日(木曜日)
- ↑ 官報第3103号 大正11年12月4日(月曜日)
- ↑ 官報第1825号 大正7年9月2日(月曜日)
- ↑ 官報第2046号 大正8年5月31日(土曜日)
- ↑ 官報第2791号 大正10年11月19日(土曜日)
- ↑ 官報第3723号 大正14年1月22日(木曜日)