多田駿
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- ただ はやお
- 多田 駿
- 陸軍大将正三位勲一等功二級
- 砲兵
- 士候15 陸大25
- 宮城県
- 明治15年2月24日 - 昭和23年12月18日
経歴
明治15年2月24日 | 生 |
明治36年11月30日 | 陸軍士官学校卒業(士候15) |
明治37年2月12日 | 任陸軍砲兵少尉 |
明治43年12月12日 | 陸軍大学校入学 |
大正2年11月26日 | 陸軍大学校卒業(第25期) |
大正15年3月20日 | 支那政府応聘(北京陸大教官) |
昭和2年7月26日 | 陸軍砲兵大佐・陸軍大学校兵学教官 |
参謀本部附 | |
昭和3年3月8日 | 補野砲兵第4聯隊長 |
昭和5年3月6日 | 第16師団参謀長 |
昭和7年4月11日 | 満洲国軍政部最高顧問 |
昭和7年8月8日 | 陸軍少将 |
昭和9年8月1日 | 野戦重砲兵第4旅団長 |
昭和10年8月1日 | 支那駐屯軍司令官 |
昭和11年4月28日 | 陸軍中将 |
昭和11年5月1日 | 第11師団長 |
昭和12年8月14日 | 参謀次長兼陸軍大学校長 |
昭和13年3月5日 | 免兼職 |
昭和13年12月10日 | 第3軍司令官 |
昭和14年9月12日 | 北支那方面軍司令官 |
昭和16年7月7日 | 陸軍大将・軍事参議官 |
昭和16年9月2日 | 予備役 |
昭和23年12月18日 | 薨去 |
栄典
明治37年5月17日 | 叙正八位 |
明治38年8月18日 | 叙従七位 |
明治43年9月30日 | 叙正七位 |
大正4年10月30日 | 叙従六位 |
大正9年11月30日 | 叙正六位 |
大正12年9月30日 | 勲三等瑞宝章[1] |
昭和6年2月2日 | 叙正五位 |
昭和11年3月2日 | 叙従四位 |
昭和8年8月3日 | 勲二等瑞宝章[2] |
昭和12年6月3日 | 勲一等瑞宝章 |
昭和13年12月28日 | 叙正四位 |
昭和15年1月18日 | ドイツ鷲勲章大十字章 |
昭和15年4月18日 | 旭日大綬章 |
昭和15年8月15日 | 紀元二千六百年祝典記念章[3] |
昭和16年8月1日 | 叙従三位 |
昭和16年10月16日 | 叙正三位 |
出典
- 外山操『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』(芙蓉書房、昭和56年)
- 官報第357号 昭和3年3月9日(金曜日)