山田乙三
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- やまだ おとぞう
- 山田乙三
- 陸軍大将正三位勲一等功二級
- 騎兵
- 士候14 陸大24
- 長野県
- 明治14年11月6日 - 昭和40年7月18日
経歴
明治14年11月6日 | 生 |
明治35年11月22日 | 陸軍士官学校卒業(士候14) |
明治36年6月26日 | 任陸軍騎兵少尉 |
明治42年12月25日 | 陸軍大学校入学 |
大正1年11月25日 | 陸軍大学校卒業(第24期) |
大正11年8月15日 | 騎兵監部部員 |
大正13年2月4日 | 騎兵第26聯隊長 |
大正14年8月7日 | 陸軍騎兵大佐 |
大正15年3月2日 | 朝鮮軍参謀 |
昭和2年7月26日 | 参謀本部通信課長 |
昭和2年10月14日 | 兼補陸軍通信学校研究部部員 |
昭和5年8月1日 | 陸軍少将・陸軍騎兵学校教育部長 |
昭和6年8月1日 | 騎兵第4旅団長 |
昭和7年8月8日 | 陸軍通信学校長 |
昭和8年8月1日 | 参謀本部第3部長 |
昭和9年8月1日 | 陸軍中将[1]・参謀本部総務部長 |
昭和10年8月13日[2] | 兼補参謀本部第3部長 |
昭和10年9月7日 | 免兼職 |
昭和10年12月2日 | 陸軍士官学校長 |
昭和12年3月1日 | 第12師団長 |
昭和13年1月8日 | 第3軍司令官 |
昭和13年12月15日 | 中支那派遣軍司令官 |
昭和14年10月14日 | 補教育総監兼軍事参議官(親補) |
昭和15年8月1日 | 陸軍大将 |
昭和16年7月7日 | 兼防衛総司令官 |
昭和16年12月9日 | 免兼防衛総司令官 |
昭和19年7月18日 | 補関東軍総司令官(親補) |
昭和31年6月26日 | シベリアより帰還 |
昭和40年7月18日 | 薨去 |
栄典
明治39年4月1日 | 功五級金鵄勲章(年金300円) 勲六等単光旭日章 明治三十七八年従軍記章[3] |
昭和5年8月1日 | 叙正五位 |
昭和9年2月7日 | 勲二等瑞宝章[4] |
昭和9年9月1日 | 叙従四位[5] |
昭和12年4月1日 | 叙正四位 |
昭和14年2月14日 | 勲一等瑞宝章[6] |
昭和15年4月15日 | 叙従三位 |
昭和15年4月29日 | 功二級金鵄勲章 旭日大綬章 |
昭和15年8月15日 | 紀元二千六百年祝典記念章[7] |
昭和18年5月1日 | 叙正三位 |
出典
- 外山操『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』(芙蓉書房、昭和56年)
- 官報第241号 昭和2年10月15日(土曜日)
- 官報第1151号 昭和5年10月29日(水曜日)
- 官報. 1935年08月14日
- 官報. 1935年09月09日
- 官報第3073号 昭和12年4月2日(金曜日)
- 官報. 1939年10月16日
- 「JACAR(アジア歴史資料センター)、第138号 昭和19年7月19日 陸軍異動通報(防衛省防衛研究所)」Ref.C12120914600
- ↑ 『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』に中将進級が昭和9年8月8日とあるのは誤り。
- ↑ 『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』に昭和10年8月1日とあるのは誤り。
- ↑ 官報第7036号 明治39年12月11日(火曜日)
- ↑ 官報第2129号 昭和9年2月8日(木曜日)
- ↑ 官報第2307号 昭和9年9月7日(金曜日)
- ↑ 官報第3634号 昭和14年2月17日(金曜日)
- ↑ 官報第4438号 昭和16年10月23日(木曜日)