山田卯三男
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- やまだ うみお
- 山田卯三男
- 陸軍中将正四位勲三等功五級
- 砲兵
- 士候13
- 愛媛県
- 明治12年9月13日 - 昭和41年7月11日
経歴
明治12年9月13日 | 生 |
明治34年11月22日 | 陸軍士官学校卒業(士候13) |
明治35年6月23日 | 任陸軍砲兵少尉 |
陸軍野戦砲兵射撃学校教官 | |
大正10年7月20日 | 補野砲兵第2聯隊附[1] |
大正11年8月15日 | 補陸軍砲工学校教官[2] |
大正11年10月10日 | 兼補陸軍将校生徒試験常置委員[3] |
兼陸軍大学校兵学教官 | |
大正13年12月15日 | 任陸軍砲兵大佐 補陸軍野戦砲兵学校高射砲練習隊長 兼同校教官同校研究部部員[4] |
大正14年5月1日 | 補陸軍野戦砲兵学校教官[5] |
兼陸軍野戦砲兵学校研究部部員 | |
昭和2年1月28日 | 補陸軍野戦砲兵学校教導聯隊長 兼同校教官(兼同校研究部部員如故)[6] |
昭和5年8月1日 | 任陸軍少将[7][8] 補対馬要塞司令官 |
昭和7年8月8日 | 野戦重砲兵第1旅団長 |
昭和8年8月1日 | 陸軍技術本部第3部長 |
昭和9年8月1日 | 陸軍中将・待命 |
昭和9年8月30日 | 予備役被仰付[9] |
昭和41年7月11日 | 死去 |
栄典
功五級金鵄勲章 | |
大正7年6月4日 | 中華民国五等文虎勲章佩用允許 |
昭和9年8月1日 | 叙従四位[10] |
昭和9年9月29日 | 叙正四位(特旨)[11] |
昭和15年8月15日 | 紀元二千六百年祝典記念章[12] |
出典
- 外山操『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』(芙蓉書房、昭和56年)
- 官報第1753号 大正7年6月7日(金曜日)
- ↑ 官報第2692号 大正10年7月21日(木曜日)
- ↑ 官報第3013号 大正11年8月16日(水曜日)
- ↑ 官報. 1922年10月11日
- ↑ 官報第3696号 大正13年12月16日(火曜日)
- ↑ 官報第3806号 大正14年5月2日(土曜日)
- ↑ 官報. 1927年01月29日
- ↑ 官報第1078号 昭和5年8月2日(土曜日)
- ↑ 『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』に昭和4年8月1日とあるのは誤り。
- ↑ 官報第2301号 昭和9年8月31日(金曜日)
- ↑ 官報第2277号 昭和9年8月3日(金曜日)
- ↑ 官報第2329号 昭和9年10月4日(木曜日)
- ↑ 官報第4438号 昭和16年10月23日(木曜日)