武田秀一
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- たけだ ひでいち
- 武田秀一
- 陸軍中将正四位勲二等功五級
- 歩兵
- 士候12
- 高知県
- 明治11年9月3日 - 昭和14年5月6日
経歴
明治11年9月3日 | 生 |
明治32年12月1日 | 陸軍士官学校入校 |
明治33年11月21日 | 陸軍士官学校卒業(士候12) |
明治33年11月26日 | 見習士官ヲ命ス |
明治34年6月25日 | 任陸軍歩兵少尉 |
大正12年8月6日 | 陸軍歩兵大佐・青森聯隊区司令官 |
大正13年8月20日 | 陸軍歩兵学校教導聯隊長 |
大正14年5月1日 | 補陸軍歩兵学校教導隊長 兼同校教官同校研究部部員[1] |
昭和2年5月24日 | 陸軍歩兵学校附被仰付[2] |
昭和2年7月1日 | 補豊橋陸軍教導学校長[3] |
昭和4年8月1日 | 陸軍少将 |
昭和5年8月1日 | 歩兵第37旅団長 |
昭和6年10月1日 | 補近衛師団司令部附[4] |
昭和8年8月1日 | 任陸軍中将 近衛師団司令部附被仰付[5] |
昭和8年12月2日 | 第3独立守備隊司令官 |
昭和9年8月1日 | 待命 |
昭和9年8月30日 | 予備役被仰付[6][7] |
昭和14年5月6日 | 死去 |
栄典
明治34年10月10日 | 叙正八位[8] |
明治37年2月19日 | 叙従七位[9] |
明治38年8月11日 | 叙正七位[10] |
明治39年4月1日 | 功五級金鵄勲章(年金300円) 勲六等単光旭日章 明治三十七八年従軍記章[11] |
明治43年9月30日 | 叙従六位[12] |
大正4年10月30日 | 叙正六位[13] |
大正7年6月4日 | 中華民国五等文虎勲章佩用允許 |
大正9年11月30日 | 叙従五位[14] |
大正14年12月28日 | 叙正五位[15] |
昭和2年5月25日 | 勲三等瑞宝章 |
昭和6年1月16日 | 叙従四位[16] |
昭和7年10月1日 | 朝鮮昭和五年国勢調査記念章 |
昭和9年2月7日 | 勲二等瑞宝章[17] |
昭和9年9月29日 | 叙正四位(特旨)[18] |
出典
- 外山操『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』(芙蓉書房、昭和56年)
- 官報第1753号 大正7年6月7日(金曜日)
- 官報第120号 昭和2年5月26日(木曜日)
- 官報第1900号 昭和8年5月5日(金曜日)
- 官報第3724号 昭和14年6月7日(水曜日)
- ↑ 官報第3806号 大正14年5月2日(土曜日)
- ↑ 官報第119号 昭和2年5月25日(水曜日)
- ↑ 官報第152号 昭和2年7月2日(土曜日)
- ↑ 官報第1429号 昭和6年10月2日(金曜日)
- ↑ 官報第1976号 昭和8年8月2日(水曜日)
- ↑ 官報第2301号 昭和9年8月31日(金曜日)
- ↑ 『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』に9月30日とあるのは誤り。
- ↑ 官報第5484号 明治34年10月11日(金曜日)
- ↑ 官報第6188号 明治37年2月20日(土曜日)
- ↑ 官報第6640号 明治38年8月17日(木曜日)
- ↑ 官報第7035号 明治39年12月10日(月曜日)
- ↑ 官報第8185号 明治43年10月1日(土曜日)
- ↑ 官報第976号 大正4年11月1日(月曜日)
- ↑ 官報第2500号 大正9年12月1日(水曜日)
- ↑ 官報第4046号 大正15年2月22日(月曜日)
- ↑ 官報第1225号 昭和6年1月31日(土曜日)
- ↑ 官報第2129号 昭和9年2月8日(木曜日)
- ↑ 官報第2329号 昭和9年10月4日(木曜日)