本庄繁
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- ほんじょう しげる
- 本庄 繁
- 陸軍大将従二位勲一等功一級男爵
- 歩兵
- 士候9 陸大19
- 兵庫県
- 明治9年5月10日 - 昭和20年11月20日自決
経歴
明治9年5月10日 | 生 |
明治30年11月29日 | 陸軍士官学校卒業(士候9) |
明治31年6月27日 | 任陸軍歩兵少尉 |
明治35年8月9日 | 陸軍大学校入学 |
明治37年2月9日 | 陸軍大学校中退 |
明治39年3月20日 | 陸軍大学校復校 |
明治40年11月30日 | 陸軍大学校卒業(第19期) |
明治42年5月20日 | 任陸軍歩兵少佐[1] |
大正2年1月15日 | 参謀本部支那課支那班長 |
大正2年6月9日 | 兼陸軍大学校兵学教官 |
大正4年6月24日 | 任陸軍歩兵中佐[1] |
大正6年8月6日 | 参謀本部支那課長 |
大正7年6月10日 | 陸軍歩兵大佐[1] |
大正8年4月1日 | 歩兵第11聯隊長 |
大正10年5月30日 | 参謀本部附(張作霖顧問) |
大正11年8月15日 | 任陸軍少将[1] |
大正13年8月20日 | 歩兵第4旅団長 |
大正14年5月1日 | 支那在勤帝国公使館附武官 |
昭和2年3月5日 | 任陸軍中将[1] |
昭和3年2月29日 | 第10師団長 |
昭和6年8月1日 | 関東軍司令官 |
昭和7年8月8日 | 軍事参議官 |
昭和8年4月6日 | 侍従武官長 |
昭和8年6月19日 | 陸軍大将 |
昭和11年3月23日 | 待命 |
昭和11年4月22日 | 予備役 |
昭和13年4月18日 | 軍事保護院総裁 |
昭和20年5月19日 | 枢密顧問官 |
昭和20年11月20日 | 自決 |
栄典
勲章
明治31年7月21日 | 叙正八位 |
明治34年2月28日 | 叙従七位 |
明治37年8月17日 | 叙正七位 |
明治39年4月1日 | 功四級金鵄勲章(年金500円) 勲五等双光旭日章 明治三十七八年従軍記章[2] |
明治42年7月20日 | 叙従六位 |
大正1年8月1日 | 韓国併合記念章 |
大正3年5月16日 | 勲四等瑞宝章 |
大正3年9月1日 | 叙正六位 |
大正4年11月7日 | 旭日小綬章 大正三四年従軍記章 |
大正7年7月10日 | 叙従五位 |
大正7年9月29日 | 勲三等瑞宝章 |
大正9年2月1日 | 功三級金鵄勲章 旭日中綬章 |
大正11年9月11日 | 叙正五位 |
大正15年9月25日 | 勲二等瑞宝章 |
昭和2年4月1日 | 叙従四位[3] |
昭和4年5月2日 | 叙正四位[4] |
昭和7年5月16日 | 叙従三位[5] |
昭和8年3月23日 | 勲一等瑞宝章 |
昭和9年4月29日 | 功一級金鵄勲章 旭日大綬章 |
昭和10年6月1日 | 叙正三位 |
昭和10年12月26日 | 男爵 |
昭和15年8月15日 | 紀元二千六百年祝典記念章 |
昭和19年7月15日 | 叙従二位[6] |
賞杯
昭和15年4月29日 | 金杯一組台付 |
昭和20年1月15日 | 御紋付木杯 |
外国勲章
明治42年9月8日 | 大清帝国三等第一双龍宝星 |
明治45年6月5日 | フランス共和国レジオンドヌール勲章シュヴァリエ |
大正5年7月11日 | 中華民国三等宝光嘉禾章 |
大正7年8月6日 | 中華民国三等文虎勲章 |
昭和4年4月23日 | フランス共和国レジオンドヌール勲章コマンドゥール佩用允許[7] |
昭和7年時点 | 中華民国二等文虎勲章 中華民国二等宝光嘉禾章[8] |
昭和9年5月9日 | 満洲国大勲位蘭花大綬章佩用允許[9] |
昭和16年12月9日 | 満洲国建国神廟創建記念章 |
出典
- 外山操『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』(芙蓉書房、昭和56年)