松井石根
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- まつい いわね
- 松井石根
- 陸軍大将正三位勲一等功一級
- 歩兵
- 士候9 陸大18首席
- 愛知県
- 明治11年7月27日 - 昭和23年12月23日法務死
経歴
明治11年7月27日 | 生 |
明治30年11月29日 | 陸軍士官学校卒業(士候9) |
明治31年6月27日 | 任陸軍歩兵少尉 |
明治34年10月 | 陸軍大学校入学 |
明治37年2月9日 | 陸軍大学校中退 |
明治39年3月20日 | 陸軍大学校復校 |
明治39年11月28日 | 陸軍大学校卒業(第18期首席) |
明治42年11月30日 | 任陸軍歩兵少佐 |
参謀本部部員[1] | |
大正4年8月10日 | 任陸軍歩兵中佐 補歩兵第22聯隊附[1][2] |
大正4年12月25日 | 参謀本部附被仰付(上海駐在)[2] |
大正7年7月24日 | 陸軍歩兵大佐 |
大正8年2月20日 | 歩兵第39聯隊長 |
大正10年5月26日 | 浦塩派遣軍参謀(情報) |
大正11年11月6日 | 関東軍司令部附被仰付(ハルピン特務機関長) |
大正12年3月17日 | 陸軍少将 |
大正13年2月4日 | 歩兵第35旅団長 |
大正14年5月1日 | 参謀本部第2部長 |
昭和2年7月26日 | 陸軍中将 |
昭和3年12月21日 | 参謀本部附(欧米出張) |
昭和4年8月1日 | 第11師団長 |
昭和6年10月1日 | 参謀本部附 |
昭和6年12月9日 | ジュネーヴ軍縮会議全権委員 |
昭和7年8月26日 | 帰国 |
昭和8年3月18日 | 軍事参議官 |
昭和8年8月1日 | 台湾軍司令官 |
昭和8年10月20日 | 陸軍大将 |
昭和9年8月1日 | 軍事参議官 |
昭和10年8月1日 | 待命 |
昭和10年8月28日 | 予備役 |
昭和12年8月15日 | 上海派遣軍司令官 |
昭和12年10月30日 | 中支那方面軍司令官兼上海派遣軍司令官 |
昭和12年12月2日 | 免兼職 |
昭和13年3月5日 | 復員 |
昭和13年7月20日 | 内閣参議(~昭和15年1月23日) |
昭和23年12月23日 | 法務死 |
栄典
明治31年7月20日 | 叙正八位 |
明治34年2月28日 | 叙従七位 |
明治37年10月24日 | 叙正七位 |
明治39年4月1日 | 功四級金鵄勲章(年金500円) 勲五等双光旭日章 明治三十七八年従軍記章[3] |
明治42年12月20日 | 叙従六位 |
大正1年8月1日 | 韓国併合記念章 |
大正3年5月16日 | 勲四等瑞宝章 |
大正4年1月30日 | 叙正六位 |
大正4年11月7日 | 旭日小綬章 賜金700円 大正三四年従軍記章 |
大正7年8月30日 | 叙従五位 |
大正10年5月1日 | 勲三等瑞宝章 |
大正11年11月1日 | 旭日中綬章 賜金1850円 |
大正12年5月21日 | 叙正五位 |
昭和2年5月25日 | 勲二等瑞宝章 |
昭和2年9月1日 | 叙従四位 |
昭和4年4月23日 | フランス共和国レジオンドヌール勲章コマンドゥール佩用允許[4] |
昭和4年9月5日 | ルーマニア王国グラン・オフィシェー・クーロンヌ勲章佩用允許 ボーランド共和国星章附オドロゼニア・ポルスキー勲章コンマンドール佩用允許 |
昭和4年10月1日 | 叙正四位 |
昭和8年4月1日 | 叙従三位 |
昭和8年11月2日 | 勲一等瑞宝章 |
昭和9年3月1日 | 満洲国建国功労章佩用允許 |
昭和9年4月29日 | 旭日大綬章 |
昭和10年9月26日 | 叙正三位(特旨)[5] |
昭和15年4月29日 | 功一級金鵄勲章 |
昭和15年8月15日 | 紀元二千六百年祝典記念章[6] |
出典
- 外山操『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』(芙蓉書房、昭和56年)
- 官報第539号 大正3年5月18日(月曜日)
- 官報第748号 大正4年2月1日(月曜日)
- 官報第1189号 大正5年7月18日(火曜日)
- 官報第1825号 大正7年9月2日(月曜日)
- 官報第2715号 大正10年8月18日(木曜日)
- 官報第3242号 大正12年5月23(水曜日)
- 官報第3305号 大正12年8月6日(月曜日)
- 官報第120号 昭和2年5月26日(木曜日)
- 官報第263号 昭和2年11月12日(土曜日)
- 官報第810号 昭和4年9月9日(月曜日)
- 官報第1880号 昭和8年4月10日(月曜日)
- 官報第2054号 昭和8年11月4日(土曜日)
- 官報第2493号 昭和10年4月27日(土曜日)