萩原勝千代
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- はぎわら かつちよ
- 萩原勝千代
- 陸軍少将従四位勲三等功五級
- 砲兵
- 士候12 砲工高12
- 鹿児島県
- 明治10年12月5日 - 昭和18年8月18日
経歴
明治10年12月5日 | 生 |
明治32年12月1日 | 陸軍士官学校入校 |
明治33年11月21日 | 陸軍士官学校卒業(士候12) |
明治33年11月26日 | 見習士官ヲ命ス |
明治34年6月25日 | 任陸軍砲兵少尉 |
明治39年12月21日 | 陸軍砲工学校高等科卒業(第12期) |
陸軍野戦砲兵射撃学校教官 | |
大正8年4月15日 | 陸軍野戦砲兵射撃学校附被仰付[1] |
大正9年8月10日 | 任陸軍砲兵中佐[2] |
野戦重砲兵第4聯隊附 | |
大正10年7月20日 | 補陸軍野戦砲兵射撃学校教官[3] |
兼陸軍野戦砲兵射撃学校研究部部員 | |
大正12年8月6日 | 補陸軍士官学校本科教官兼同校訓育部附[4] |
大正13年8月20日 | 陸軍士官学校附被仰付[5] |
大正13年12月15日 | 任陸軍砲兵大佐[2] 補野戦重砲兵第2聯隊長[6] |
昭和2年2月10日 | 補野砲兵第25聯隊長[7] |
昭和4年3月16日 | 壱岐要塞司令官 |
昭和5年8月1日 | 陸軍少将・待命 |
昭和5年8月29日 | 予備役 |
昭和18年8月18日 | 死去[8] |
栄典
明治34年10月10日 | 叙正八位[9] |
明治37年2月19日 | 叙従七位[10] |
明治38年8月11日 | 叙正七位[11] |
明治43年9月30日 | 叙従六位[12] |
大正4年10月30日 | 叙正六位[13] |
大正7年6月4日 | 中華民国五等文虎勲章佩用允許 |
大正9年11月30日 | 叙従五位[14] |
大正14年12月28日 | 叙正五位[15] |
昭和5年9月26日 | 叙従四位(特旨)[16] |
昭和15年8月15日 | 紀元二千六百年祝典記念章[17] |
出典
- 外山操『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』(芙蓉書房、昭和56年)
- 陸軍予備役将校同相当官服役停年名簿. 昭和9年4月1日調
- 官報第1753号 大正7年6月7日(金曜日)
- ↑ 官報第2008号 大正8年4月16日(水曜日)
- ↑ 2.0 2.1 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿. 大正14年9月1日調
- ↑ 官報第2692号 大正10年7月21日(木曜日)
- ↑ 官報第3306号 大正12年8月7日(火曜日)
- ↑ 官報第3599号 大正13年8月21日(木曜日)
- ↑ 官報第3696号 大正13年12月16日(火曜日)
- ↑ 官報第34号 昭和2年2月12日(土曜日)
- ↑ 官報第5160号 昭和19年3月29日(水曜日)
- ↑ 官報第5484号 明治34年10月11日(金曜日)
- ↑ 官報第6188号 明治37年2月20日(土曜日)
- ↑ 官報第6640号 明治38年8月17日(木曜日)
- ↑ 官報第8185号 明治43年10月1日(土曜日)
- ↑ 官報第976号 大正4年11月1日(月曜日)
- ↑ 官報第2500号 大正9年12月1日(水曜日)
- ↑ 官報第4046号 大正15年2月22日(月曜日)
- ↑ 官報第1138号 昭和5年10月13日(月曜日)
- ↑ 官報第4438号 昭和16年10月23日(木曜日)