阿部信行
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- あべ のぶゆき
- 阿部信行
- 陸軍大将正二位勲一等
- 砲兵
- 士候9 砲工高9 陸大19優等
- 石川県
- 明治8年11月24日 - 昭和28年9月7日
経歴
明治8年11月24日 | 生 |
明治30年11月29日 | 陸軍士官学校卒業(士候9) |
明治31年6月27日 | 任陸軍砲兵少尉 |
明治34年12月23日 | 陸軍砲工学校高等科卒業(第9期) |
明治35年8月9日 | 陸軍大学校入学 |
明治37年2月9日 | 陸軍大学校中退 |
明治39年3月20日 | 陸軍大学校復校 |
明治40年11月30日 | 陸軍大学校卒業(第19期優等) |
重砲兵第1聯隊附 | |
大正3年1月20日 | 補陸軍大学校兵学教官 |
大正4年2月15日 | 任陸軍砲兵中佐 |
大正5年3月22日 | 兼補参謀本部部員 |
大正7年7月24日 | 陸軍砲兵大佐・野砲兵第3聯隊長 |
大正9年8月10日 | 参謀本部編制動員課長 |
兼陸軍大学校兵学教官 | |
大正10年6月3日 | 補陸軍大学校兵学教官兼同校幹事 |
大正11年8月15日 | 陸軍少将 |
大正12年8月6日 | 参謀本部総務部長 |
大正12年9月3日 | 兼関東戒厳参謀長 |
大正15年7月28日 | 陸軍省軍務局長 |
昭和2年3月5日 | 陸軍中将 |
昭和3年8月10日 | 陸軍次官 |
昭和5年6月16日 | 内閣官制第十条ニ依リ特ニ国務大臣トシテ内閣員ニ列セシム 陸軍大臣臨時代理被仰付 特ニ現役ニ列セシム 依願免本官(陸軍次官) |
昭和5年12月10日 | 陸軍大臣臨時代理被免 依願国務大臣トシテ内閣員ニ列スルヲ免ス 参謀本部附被仰付 |
昭和5年12月22日 | 補第4師団長(親補) 参謀本部附被免 |
昭和7年1月9日 | 補台湾軍司令官(親補) |
昭和8年6月19日 | 任陸軍大将 |
昭和8年8月1日 | 補軍事参議官(親補) |
昭和11年3月6日 | 待命被仰付 |
昭和11年3月10日 | 予備役被仰付[1] |
昭和14年8月30日 | 任内閣総理大臣兼外務大臣[2] |
昭和14年9月25日 | 免兼官(外務大臣) |
昭和15年1月16日 | 依願免本官 |
昭和15年4月1日 | 任特命全権大使 特ニ国務大臣ノ礼遇ヲ賜フ 中華民国ヘ出張被仰付 |
昭和15年12月7日 | 辞 |
昭和17年5月18日 | 貴族院議員 |
昭和17年5月20日 | 翼賛政治会総裁 |
昭和19年7月24日 | 朝鮮総督 |
昭和20年9月27日 | 依願免本官 |
昭和28年9月7日 | 薨去 |
栄典
大正3年4月30日 | オーストリア・ハンガリー帝国二等フランツ・ヨーゼフ勲章佩用允許 |
大正9年11月1日 | 戦捷記章 |
大正14年7月11日 | 中華民国三等文虎勲章佩用允許[3] |
昭和2年1月22日 | 勲二等瑞宝章 |
昭和2年4月1日 | 叙従四位[4] |
昭和5年11月6日 | 勲一等瑞宝章[5] |
昭和15年8月15日 | 紀元二千六百年祝典記念章[6] |
昭和18年7月 | 中華民国特級同光勲章 |
昭和28年9月7日 | 薨去 叙正二位 |
出典
- 外山操『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』(芙蓉書房、昭和56年)
- 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿. 大正9年9月1日調
- 官報第442号 大正3年1月21日(水曜日)
- 官報第527号 大正3年5月4日(月曜日)
- 官報. 1916年03月23日
- 官報第2652号 大正10年6月4日(土曜日)
- 官報第3008号 大正11年8月10日(木曜日)
- 官報第22号 昭和2年1月26日(水曜日)
- 官報第1038号 昭和5年6月17日(火曜日)
- 官報第1187号 昭和5年12月11日(木曜日)
- 官報第1197号 昭和5年12月23日(火曜日)
- 官報. 1932年01月11日
- 官報第1939号 昭和8年6月20日(火曜日)
- 官報第1976号 昭和8年8月2日(水曜日)
- 官報第2753号 昭和11年3月9日(月曜日)
- 官報. 1939年09月25日
- 官報第3905号 昭和15年1月16日(火曜日)
- 官報第3970号 昭和15年4月2日(火曜日)
- 官報. 1944年07月25日