河邊正三
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- かわべ まさかず
- 河邊正三
- 陸軍大将従三位勲一等功二級
- 歩兵
- 士候19 陸大27優等
- 富山県
- 明治19年12月5日 - 昭和40年3月2日
経歴
明治19年12月5日 | 生 |
明治40年5月31日 | 陸軍士官学校卒業(士候19) |
明治40年12月26日 | 任陸軍歩兵少尉 |
大正1年12月13日 | 陸軍大学校入学 |
大正4年12月11日 | 陸軍大学校卒業(第27期優等) |
昭和2年11月15日 | 陸軍大学校教官 |
昭和4年8月1日 | ドイツ大使館附武官 |
昭和5年6月3日 | 兼補陸軍技術本部独国駐在官陸軍技術本部独国駐在官 |
昭和6年8月1日 | 陸軍歩兵大佐 |
昭和7年2月6日 | 参謀本部附 |
昭和7年4月11日 | 歩兵第6聯隊長 |
昭和8年8月1日 | 補陸軍歩兵学校教導隊長 兼同校教官同校研究部部員 |
昭和9年3月5日 | 補教育総監部第1課長 兼陸軍通信学校研究部部員 |
昭和11年3月7日 | 陸軍少将・教育総監部附 |
昭和11年4月30日 | 支那駐屯歩兵旅団長 |
昭和12年8月26日 | 北支那方面軍参謀副長 |
昭和13年2月15日 | 中支那派遣軍参謀長 |
昭和14年1月31日 | 教育総監部本部長 |
昭和14年3月9日 | 陸軍中将 |
昭和15年3月9日 | 第12師団長(親補) |
昭和16年3月1日 | 第3軍司令官(親補) |
昭和17年8月17日 | 支那派遣軍総参謀長 |
昭和18年3月18日 | 緬甸方面軍司令官(親補) |
昭和19年8月30日 | 補参謀本部附 |
昭和19年12月1日 | 補中部軍司令官(親補) |
昭和20年2月1日 | 補第15方面軍司令官兼中部軍管区司令官(親補) |
昭和20年3月9日 | 任陸軍大将 |
昭和20年4月7日 | 補航空総軍司令官(親補) |
昭和20年8月16日 | 兼補陸軍航空本部長 |
昭和20年10月1日 | 補第1総軍司令官兼陸軍航空本部長 |
昭和20年10月15日 | 第1復員司令官(改称)兼陸軍航空本部長 |
昭和20年11月15日 | 陸軍航空本部廃止 |
昭和20年11月30日 | 予備役 |
昭和40年3月2日 | 薨去 |
栄典
大正10年6月30日 | 叙従六位[1] |
大正15年8月2日 | 叙正六位 |
昭和6年9月15日 | 叙従五位 |
昭和15年4月29日 | 勲一等旭日大綬章 |
昭和15年8月15日 | 紀元二千六百年祝典記念章[2] |
昭和16年12月12日 | 勲一等瑞宝章 |
昭和18年7月 | 中華民国一級同光勲章 |
出典
- 外山操『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』(芙蓉書房、昭和56年)
- 官報第4197号 大正15年8月19日(木曜日)
- 官報. 1930年06月04日
- 官報第1434号 昭和6年10月8日(木曜日)
- 官報第1976号 昭和8年8月2日(水曜日)
- 官報第2151号 昭和9年3月6日(火曜日)
- 「JACAR(アジア歴史資料センター)、第180号 昭和19年8月31日 陸軍異動通報(防衛省防衛研究所)」Ref.C12120918900
- 「JACAR(アジア歴史資料センター)、第252号 昭和19年12月2日 陸軍異動通報(防衛省防衛研究所)」Ref.C12120926900
- 「JACAR(アジア歴史資料センター)、第24号 昭和20年2月1日 陸軍異動通報(防衛省防衛研究所)」Ref.C12120932700
- 「JACAR(アジア歴史資料センター)、第53号 昭和20年3月10日 陸軍異動通報(防衛省防衛研究所)」Ref.C12120953100
- 「JACAR(アジア歴史資料センター)、第83号 昭和20年4月8日 陸軍異動通報(防衛省防衛研究所)」Ref.C12120939300
- 「JACAR(アジア歴史資料センター)、第1号 昭和20年8月31日 陸軍異動通報(防衛省防衛研究所)」Ref.C12120963200
- 「JACAR(アジア歴史資料センター)、第3号 昭和20年10月20日 陸軍異動通報(防衛省防衛研究所)」Ref.C12120947900