渡邊錠太郎
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- わたなべ じょうたろう
- 渡邊錠太郎
- 陸軍大将従二位勲一等功五級
- 歩兵
- 士候8 陸大17首席
- 愛知県
- 明治7年4月16日 - 昭和11年2月26日暗殺
経歴
明治7年4月16日 | 生[1] |
明治29年11月26日 | 陸軍士官学校卒業(士候8) |
明治30年6月28日 | 任陸軍歩兵少尉 |
明治32年11月17日 | 任陸軍歩兵中尉[2] |
明治33年12月10日 | 陸軍大学校ヘ入学ヲ命ス |
明治36年11月28日 | 陸軍大学校卒業(第17期首席) |
明治36年12月9日 | 任陸軍歩兵大尉[2] |
明治41年12月21日 | 任陸軍歩兵少佐[2] |
明治42年5月 | ドイツ大使館附武官輔佐官 |
明治43年6月 | 参謀本部部員[3] |
明治43年11月 | 兼元帥副官 元帥陸軍大将公爵山縣有朋附属[3] |
大正2年1月15日 | 任陸軍歩兵中佐[2] |
大正4年2月15日 | 補歩兵第3聯隊附[3] |
大正5年5月2日 | 参謀本部外国戦史課長 |
大正5年7月14日 | 任陸軍歩兵大佐[4] |
大正6年10月12日 | オランダ公使館附武官 |
大正8年9月10日 | 参謀本部附(欧洲出張) |
大正9年8月10日 | 任陸軍少将・歩兵第29旅団長 |
大正11年9月26日 | 参謀本部第4部長 |
大正13年10月3日 | 兼補陸軍大学校兵学教官[5] |
大正14年5月1日 | 任陸軍中将・陸軍大学校長 |
大正15年3月2日 | 第7師団長(親補) |
昭和4年3月16日 | 補陸軍航空本部長[6] |
昭和5年6月2日 | 補台湾軍司令官(親補)[7] |
昭和6年8月1日 | 任陸軍大将 補軍事参議官(親補) 兼補陸軍航空本部長[8] |
昭和8年3月18日 | 免兼職[9] |
昭和9年2月9日 | 補議定官[10] |
昭和10年7月16日 | 補教育総監兼軍事参議官(親補)[11] |
昭和11年2月26日 | 二・二六事件で暗殺 |
栄典
明治30年10月15日 | 叙正八位[12] |
明治32年12月26日 | 叙従七位[13] |
明治37年2月29日 | 叙正七位[14] |
明治43年8月20日 | バイエルン王国王冠附四等武功勲章佩用允許[15] |
大正1年8月1日 | 韓国併合記念章[16] |
大正2年3月10日 | 叙正六位[17] |
大正2年11月28日 | 勲四等瑞宝章[18] |
大正3年時点 | 勲五等双光旭日章 功五級金鵄勲章[2] |
大正5年8月10日 | 叙従五位[19] |
大正6年時点 | 勲三等旭日中綬章[4] |
大正6年11月9日 | チリ共和国二等有功記章佩用允許[20] |
大正9年9月10日 | 叙正五位[21] |
大正9年11月1日 | 賜金2900円 大正三年乃至九年戦役従軍記章[22] 戦捷記章[23] |
大正11年10月27日 | 勲二等瑞宝章[24] |
大正14年6月1日 | 叙従四位[25] |
昭和2年7月1日 | 叙正四位[26] |
昭和5年7月8日 | 勲一等瑞宝章[27] |
昭和5年7月15日 | 叙従三位[28] |
昭和8年8月1日 | 叙正三位[29] |
昭和9年2月7日 | 授旭日大綬章[30] |
昭和9年3月1日 | 満洲国建国功労章佩用允許[31] |
昭和11年2月26日 | 薨去 授旭日桐花大綬章 叙従二位(特旨)[32][33] |
出典
- 外山操『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』(芙蓉書房、昭和56年)
- ↑ 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿. 昭和10年9月1日調
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿. 大正3年7月1日調
- ↑ 3.0 3.1 3.2 官報第760号 大正4年2月16日(火曜日)
- ↑ 4.0 4.1 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿. 大正6年9月1日調
- ↑ 官報第3636号 大正13年10月4日(土曜日)
- ↑ 官報第663号 昭和4年3月18日(月曜日)
- ↑ 官報第1026号 昭和5年6月3日(火曜日)
- ↑ 官報第1378号 昭和6年8月3日(月曜日)
- ↑ 官報第1864号 昭和8年3月20日(月曜日)
- ↑ 官報第2131号 昭和9年2月10日(土曜日)
- ↑ 官報第2561号 昭和10年7月17日(水曜日)
- ↑ 官報第4289号 明治30年10月16日(土曜日)
- ↑ 官報第4948号 明治32年12月27日(水曜日)
- ↑ 官報第6196号 明治37年3月1日(火曜日)
- ↑ 官報第8173号 明治43年9月16日(金曜日)
- ↑ 官報第248号 大正2年5月29日(木曜日)
- ↑ 官報第182号 大正2年5月11日(火曜日)
- ↑ 官報第402号 大正2年11月29日(土曜日)
- ↑ 官報第1210号 大正5年8月11日(金曜日)
- ↑ 官報第1585号 大正6年11月13日(火曜日)
- ↑ 官報第2434号 大正9年9月11日(土曜日)
- ↑ 官報第2612号 大正10年4月19日(火曜日)
- ↑ 官報第2903号 大正11年4月10日(月曜日)
- ↑ 官報第3074号 大正11年10月28日(土曜日)
- ↑ 官報第3895号 大正14年8月17日(月曜日)
- ↑ 官報第219号 昭和2年9月19日(火曜日)
- ↑ 官報第1057号 昭和5年7月9日(水曜日)
- ↑ 官報第1127号 昭和5年9月30日(火曜日)
- ↑ 官報第1978号 昭和8年8月4日(金曜日)
- ↑ 官報第2129号 昭和9年2月8日(木曜日)
- ↑ 官報第2493号 昭和10年4月27日(土曜日)
- ↑ 官報第2747号 昭和11年3月2日(月曜日)
- ↑ 『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』には「功三」とあるが、昭和11年3月2日官報の時点では功五級。