土肥原賢二
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- どいはら けんじ
- 土肥原賢二
- 陸軍大将正三位勲一等功二級
- 歩兵
- 士候16 陸大24
- 岡山県
- 明治16年8月8日 - 昭和23年12月23日法務死
経歴
明治16年8月8日 | 生 |
明治37年10月24日 | 陸軍士官学校卒業(士候16) |
明治37年11月1日 | 任陸軍歩兵少尉 |
明治42年12月25日 | 陸軍大学校入学 |
大正1年11月25日 | 陸軍大学校卒業(第24期) |
昭和2年7月26日 | 任陸軍歩兵大佐 第1師団司令部附被仰付 |
昭和3年3月20日 | 奉天督軍顧問 |
昭和4年3月16日 | 補歩兵第30聯隊長 |
昭和5年12月22日 | 参謀本部附(支那出張) |
昭和6年8月1日 | 補関東軍司令部附(奉天特務機関長) |
昭和7年1月26日 | ハルピン特務機関長[1] |
昭和7年4月11日 | 任陸軍少将 補歩兵第9旅団長 |
昭和8年10月16日 | 補関東軍司令部附(奉天特務機関長) |
昭和11年3月7日 | 任陸軍中将 第12師団司令部附被仰付 |
昭和11年3月23日 | 第1師団司令部附被仰付(第1師団留守司令官) |
昭和12年3月1日 | 補第14師団長 |
昭和13年6月18日 | 参謀本部附被仰付(上海駐在) |
昭和14年5月19日 | 参謀本部附被免 補第5軍司令官 |
昭和15年9月28日 | 補軍事参議官 |
昭和15年10月28日 | 兼陸軍士官学校長 |
昭和16年4月28日 | 任陸軍大将 |
昭和16年6月9日 | 補陸軍航空総監兼軍事参議官陸軍航空本部長[2] |
昭和18年5月1日 | 補東部軍司令官兼軍事参議官 |
昭和19年3月22日 | 補第7方面軍司令官(親補) |
昭和20年4月7日 | 補教育総監(親補) |
昭和20年5月5日 | 兼補軍事参議官(親補) |
昭和20年8月25日 | 補第12方面軍司令官兼東部軍管区司令官[3] |
昭和20年8月27日 | 兼補軍事参議官[3] |
昭和20年9月14日 | 補第1総軍司令官兼第12方面軍司令官 東部軍管区司令官軍事参議官[3] |
昭和20年9月23日 | 補軍事参議官[3] |
昭和20年11月30日 | 予備役[4] |
昭和23年12月23日 | 法務死 |
栄典
功四級金鵄勲章 | |
大正7年7月15日 | 中華民国四等文虎勲章佩用允許 |
大正12年9月30日 | 勲三等瑞宝章[5] |
昭和9年2月7日 | 勲二等瑞宝章[6] |
昭和12年11月9日 | 勲一等瑞宝章 |
昭和15年4月18日 | 勲一等旭日大綬章 |
昭和15年4月29日 | 功二級金鵄勲章 |
昭和15年8月15日 | 紀元二千六百年祝典記念章[7] |
昭和16年8月1日 | 叙従三位 |
昭和19年6月15日 | 叙正三位 |
出典
- 外山操『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』(芙蓉書房、昭和56年)
- 「JACAR(アジア歴史資料センター)、第55号 昭和19年3月22日 陸軍異動通報(防衛省防衛研究所)」Ref.C12120905500
- 「JACAR(アジア歴史資料センター)、第83号 昭和20年4月8日 陸軍異動通報(防衛省防衛研究所)」Ref.C12120939300
- 「JACAR(アジア歴史資料センター)、第103号 昭和20年5月5日 陸軍異動通報(防衛省防衛研究所)」Ref.C12120941400
- 「JACAR(アジア歴史資料センター)、第1号 昭和20年8月31日 陸軍異動通報(防衛省防衛研究所)」Ref.C12120963200
- 「JACAR(アジア歴史資料センター)、第2号 昭和20年9月30日 陸軍異動通報(防衛省防衛研究所)」Ref.C12120963300
- 「JACAR(アジア歴史資料センター)、第3号 昭和20年10月20日 陸軍異動通報(防衛省防衛研究所)」Ref.C12120947900
- 官報第1788号 大正7年7月18日(木曜日)
- 法廷証第104号: [土肥原賢二關スル人事局履歴書]
- ↑ 本職は関東軍司令部附のまま
- ↑ 「土肥原賢二關スル人事局履歴書」では陸軍航空本部長の記載はない。
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 昭和20年8月31日陸軍異動通報以降は従来の親補職にも「(親補)」の記載はない。
- ↑ 昭和20年11月30日陸軍異動通報には11月30日予備役の記載がなかった。
- ↑ 官報第3354号 大正12年10月26日(金曜日)
- ↑ 官報第2129号 昭和9年2月8日(木曜日)
- ↑ 官報第4438号 昭和16年10月23日(木曜日)