藤江惠輔
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- ふじえ けいすけ
- 藤江惠輔
- 陸軍大将正三位勲一等功二級
- 砲兵
- 士候18 砲工高16 陸大26
- 兵庫県
- 明治18年11月8日 - 昭和44年2月27日
経歴
明治18年11月8日 | 生 |
明治38年11月25日 | 陸軍士官学校卒業(士候18) |
明治39年6月26日 | 任陸軍砲兵少尉 |
明治43年11月25日 | 陸軍砲工学校高等科卒業(第16期) |
明治44年12月12日 | 陸軍大学校入学 |
大正3年11月27日 | 陸軍大学校卒業(第26期) |
昭和4年8月1日 | 陸軍砲兵大佐・第16師団司令部附(京都帝国大学服務) |
昭和6年8月1日 | 陸軍兵器本廠附 |
昭和6年12月9日 | ジュネーヴ軍縮会議随員 |
昭和7年6月25日 | 帰朝 |
昭和7年8月8日 | 野戦重砲兵第2聯隊長 |
昭和9年8月1日 | 陸軍少将・陸軍野戦砲兵学校幹事 |
昭和10年8月1日 | 野戦重砲兵第4旅団長 |
昭和11年8月1日 | 関東憲兵隊総務部長 |
昭和12年3月1日 | 関東憲兵隊司令官 |
昭和12年8月2日 | 憲兵司令官 |
昭和12年11月1日 | 陸軍中将 |
昭和13年7月15日 | 第16師団長 |
昭和14年8月20日 | 参謀本部附 |
昭和14年10月26日 | 陸軍大学校長 |
昭和16年4月10日 | 西部軍司令官(親補) |
昭和18年2月10日 | 陸軍大将 |
昭和19年3月22日 | 補東部軍司令官(親補) |
昭和20年2月1日 | 補第12方面軍司令官兼東部軍管区司令官(親補) |
昭和20年3月9日 | 待命被仰付 |
昭和20年3月31日 | 予備役被仰付 |
昭和20年6月22日 | 補第11方面軍司令官兼東北軍管区司令官(親補) |
昭和20年10月15日 | 召集解除 |
昭和44年2月27日 | 薨去 |
栄典
明治42年7月10日 | 叙従七位[1] |
大正3年7月31日 | 叙正七位[2] |
大正4年11月7日 | 大正三四年従軍記章[3] |
大正9年9月7日 | 勲五等双光旭日章 賜金1100円 (対独平和条約締結並ニ大正四年乃至九年戦役ノ功)[4] 大正三年乃至九年戦役従軍記章[5] |
昭和9年9月15日 | 叙正五位[6] |
昭和15年4月29日 | 勲一等旭日大綬章 |
昭和15年8月15日 | 紀元二千六百年祝典記念章[7] |
出典
- 外山操『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』(芙蓉書房、昭和56年)
- 「JACAR(アジア歴史資料センター)、第55号 昭和19年3月22日 陸軍異動通報(防衛省防衛研究所)」Ref.C12120905500
- 「JACAR(アジア歴史資料センター)、第24号 昭和20年2月1日 陸軍異動通報(防衛省防衛研究所)」Ref.C12120932700
- 「JACAR(アジア歴史資料センター)、第55号 昭和20年3月10日 陸軍異動通報(防衛省防衛研究所)」Ref.C12120935900
- 「JACAR(アジア歴史資料センター)、第74号 昭和20年3月31日 陸軍異動通報(防衛省防衛研究所)」Ref.C12120937900
- 「JACAR(アジア歴史資料センター)、第143号 昭和20年6月23日 陸軍異動通報(防衛省防衛研究所)」Ref.C12120946400