磯村年
ナビゲーションに移動
検索に移動
- いそむら とし
- 磯村 年
- 陸軍大将正三位勲一等功三級
- 砲兵
- 士候4 陸大14優等
- 滋賀県
- 明治5年9月30日 - 昭和36年9月12日
経歴
明治5年9月30日 | 生[1] |
明治26年7月25日 | 陸軍士官学校卒業(士候4) |
明治27年3月7日 | 任陸軍砲兵少尉 |
明治30年12月28日 | 陸軍大学校入学 |
明治33年12月20日 | 陸軍大学校卒業(第14期優等) |
明治41年3月18日 | 任陸軍砲兵中佐 |
野砲兵第12聯隊附 | |
明治43年11月30日 | 補野砲兵第12聯隊長 |
大正2年1月15日 | 野砲兵第16聯隊長 |
大正2年7月3日 | 任陸軍砲兵大佐 |
大正2年8月22日 | 第18師団参謀長 |
大正3年8月16日 | 独立第18師団高級参謀(青島攻略) |
大正5年4月10日 | 参謀本部編制動員課長 |
大正5年5月23日 | 兼補陸軍技術審査部議員 |
大正6年8月6日 | 参謀本部庶務課長 |
大正7年1月18日 | 陸軍少将・広島湾要塞司令官 |
大正7年7月24日 | 野砲兵第3旅団長 |
大正8年4月15日 | 補陸軍野戦砲兵射撃学校長 陸軍技術会議議員被仰付 |
大正10年3月28日 | 浦塩派遣軍参謀長[2] 陸軍技術会議議員被免 |
大正11年7月10日 | 教育総監部附被仰付[3] |
大正11年8月15日 | 任陸軍中将 教育総監部附被免 補陸軍砲工学校長 |
大正12年8月6日 | 補第12師団長(親補) 陸軍技術会議議員被免 |
大正15年7月28日 | 補東京警備司令官(親補) |
昭和3年8月10日 | 陸軍大将[1]・待命 |
昭和3年8月29日 | 予備役[1] |
昭和13年4月1日 | 後備役 |
昭和36年9月12日 | 薨去 |
栄典
明治27年5月1日 | 叙正八位 |
明治39年4月1日 | 功四級金鵄勲章(年金500円) 勲四等旭日小綬章 明治三十七八年従軍記章 |
明治41年4月10日 | 叙正六位 |
大正2年5月20日 | 叙従五位[4] |
大正4年11月7日 | 功三級金鵄勲章(年金700円) 旭日中綬章 大正三四年従軍記章[5] |
大正7年2月28日 | 叙正五位 |
大正8年12月15日 | 戦捷記章[6] |
大正11年9月11日 | 叙従四位 |
大正11年11月1日 | 旭日重光章 賜金2300円(西比利亜地方派遣中ノ功)[7] |
大正13年12月1日 | 叙正四位 |
昭和2年6月30日 | 勲一等瑞宝章 |
昭和2年12月15日 | 叙従三位 |
昭和3年5月29日 | ポーランド共和国ダルシャン・ヴィルッチ・ミリタリ勲章佩用允許 |
昭和3年9月28日 | 叙正三位(特旨) |
昭和9年時点 | 大英帝国三等バス勲章 ルーマニア王国三等王冠勲章[1] |
昭和15年8月15日 | 紀元二千六百年祝典記念章[8] |
出典
- 外山操『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』(芙蓉書房、昭和56年)
- 官報号外 明治39年12月8日(土曜日)
- 官報第8234号 明治43年12月1日(木曜日)
- 官報. 1916年05月24日
- 官報第1505号 大正6年8月7日(火曜日)
- 官報第2008号 大正8年4月16日(水曜日)
- 官報第2594号 大正10年3月29日(火曜日)
- 官報第2982号 大正11年7月11日(火曜日)
- 官報第3013号 大正11年8月16日(水曜日)
- 官報第3306号 大正12年8月7日(火曜日)
- 官報第4180号 大正15年7月29日(木曜日)
- 官報第427号 昭和3年6月1日(金曜日)
- 官報第539号 昭和3年10月10日(水曜日)
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 陸軍予備役将校同相当官服役停年名簿. 昭和9年4月1日調
- ↑ 浦塩派遣軍参謀長補職は官報不登載
- ↑ 『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』に参謀本部附とあるが誤り。
- ↑ 官報第241号 大正2年5月21日(水曜日)
- ↑ 官報第1068号 大正5年2月25日(金曜日)
- ↑ 官報第2903号 大正11年4月10日(月曜日)
- ↑ 官報第3347号 大正12年10月18日(木曜日)
- ↑ 官報第4438号 昭和16年10月23日(木曜日)