下村定
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- しもむら さだむ
- 下村 定
- 陸軍大将正三位勲一等功三級
- 砲兵
- 士候20 陸大28首席
- 高知県
- 明治20年9月23日 - 昭和43年3月25日
経歴
明治20年9月23日 | 生[1] |
明治39年12月1日 | 陸軍士官学校入校 |
明治41年5月27日 | 陸軍士官学校卒業(士候20) |
明治41年12月25日 | 任陸軍砲兵少尉 |
大正2年12月13日 | 陸軍大学校入学 |
大正5年11月25日 | 陸軍大学校卒業(第28期首席) |
昭和3年3月24日 | 任陸軍砲兵中佐[1] |
昭和6年4月10日 | 陸軍兵器本廠附(国連軍縮準備委員会幹事) |
昭和6年8月1日 | 任陸軍砲兵大佐[1] |
昭和8年12月20日 | 野戦重砲兵第1聯隊長 |
昭和10年3月15日 | 関東軍参謀(作戦課長) |
昭和10年12月2日 | 陸軍大学校研究部主事 |
昭和11年3月7日 | 陸軍少将 |
昭和11年8月1日 | 参謀本部第4部長 |
昭和12年9月28日 | 参謀本部第1部長 |
昭和13年1月12日 | 参謀本部附(病気) |
昭和13年9月23日 | 東京湾要塞司令官 |
昭和14年3月9日 | 陸軍中将 |
昭和15年8月1日 | 陸軍砲工学校長 |
昭和16年9月3日 | 陸軍大学校長 |
昭和17年10月8日 | 第13軍司令官 |
昭和19年3月22日 | 補西部軍司令官(親補) |
昭和19年11月22日 | 補北支那方面軍司令官(親補) |
昭和20年5月5日 | 任陸軍大将[2] |
昭和20年8月19日 | 補参謀本部附 |
昭和20年8月23日 | 任陸軍大臣[3] |
昭和20年8月25日 | 補教育総監[4] |
昭和20年10月15日 | 免本職(教育総監) |
昭和20年11月30日 | 依願免本官[5] 予備役 |
昭和43年3月25日 | 薨去 |
栄典
明治42年3月1日 | 叙正八位 |
明治45年3月1日 | 叙従七位 |
大正6年3月20日 | 叙正七位 |
大正11年4月20日 | 叙従六位 |
昭和2年5月16日 | 叙正六位 |
昭和4年9月28日 | ルーマニア王国王冠勲章コマンドール佩用允許[6] |
昭和6年9月15日 | 叙従五位 |
昭和10年時点 | 勲三等瑞宝章 勲五等双光旭日章 フランス共和国四等レジオンドヌール勲章[1] |
昭和15年4月29日 | 功三級金鵄勲章 |
昭和15年5月17日 | 勲二等瑞宝章 |
昭和15年8月15日 | 紀元二千六百年祝典記念章[7] |
昭和17年11月16日 | 叙正四位 |
昭和19年11月15日 | 勲一等瑞宝章[8] |
昭和20年5月17日 | 叙従三位 |
昭和43年3月25日 | 薨去 叙正三位 授旭日大綬章 |
出典
- 外山操『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』(芙蓉書房、昭和56年)
- 「JACAR(アジア歴史資料センター)、第55号 昭和19年3月22日 陸軍異動通報(防衛省防衛研究所)」Ref.C12120905500
- 「JACAR(アジア歴史資料センター)、第243号 昭和19年11月24日 陸軍異動通報(防衛省防衛研究所)」Ref.C12120925900
- 「JACAR(アジア歴史資料センター)、第103号 昭和20年5月5日 陸軍異動通報(防衛省防衛研究所)」Ref.C12120941400
- 「JACAR(アジア歴史資料センター)、第1号 昭和20年8月31日 陸軍異動通報(防衛省防衛研究所)」Ref.C12120963200
- 「JACAR(アジア歴史資料センター)、第3号 昭和20年10月20日 陸軍異動通報(防衛省防衛研究所)」Ref.C12120947900
- 官報第8608号 明治45年3月2日(土曜日)
- 官報. 1945年12月05日
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿. 昭和10年9月1日調
- ↑ 『陸海軍将官人事総覧 (陸軍篇) 』に5月7日とあるのは誤り。
- ↑ 官報第5587号 昭和20年8月27日(月曜日)
- ↑ 陸軍大臣在職のまま。
- ↑ 陸軍省廃止
- ↑ 官報第828号 昭和4年10月1日(火曜日)
- ↑ 官報第4438号 昭和16年10月23日(木曜日)
- ↑ 官報第5359号 昭和19年11月24日(金曜日)